宮部みゆき 書評「台風、来る」―作家生活30周年記念・秘蔵原稿公開

レビュー

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火天風神 : 長編小説

『火天風神 : 長編小説』

著者
若竹, 七海, 1963-
出版社
光文社
ISBN
9784334741068
価格
838円(税込)

書籍情報:openBD

台風、来る

[レビュアー] 宮部みゆき(作家)

「人と災害」がテーマの若竹七海さん『火天風神』を宮部みゆきさんが書評されていました。災厄を描くときに、必要なものとは何なのか……。熱い持論をご堪能ください。

 ***

 待望の台風がやって来ました。

 と言っても、渇水にあえぐ西日本諸国のお話ではありません。若竹七海さんの新作『火天風神』(十月、新潮社刊)のことであります。三浦半島の剣崎に海を望んで立つリゾートホテルと、そこに襲いかかる台風、閉じ込められた人々と、彼らをめぐる個々のドラマ、閉鎖空間で起こる事件――お馴染み、グランドホテル形式で描かれたこの作品は、謎解きミステリーや冒険小説といったジャンルの枠を超えた、魅力のある小説に仕上げられています。

 昔から、人と災害という組み合わせは、エンターテインメントの世界では、格好のモチーフとされてきました。交錯する種々の人生を描き、それが外的な圧力にぶつかったことによって変化してゆくドラマを描くためには、この組み合わせは実に最適の設定であり、また実際に多くの快作傑作を生み出してきました。たとえば、本作のなかで、登場人物のひとりがちらりと言及する映画『タワーリング・インフェルノ』もそのひとつです。

 ところが、災害パニック映画ブームが頂点に達したころ、当時のハリウッドが総力をあげオールスターキャストで撮りあげたこの映画も、今ではすっかり、アナクロな「お懐かしき」作品群のなかに埋もれてしまいました。なぜそうなったかという理由を述べるならば、やはり、『タワーリング――』当時の特殊撮影の技術力を、現在のそれ(たとえば最近作『トゥルーライズ』など)と引き比べてみたとき、子供と大人ほどの差ができてしまっているからというのが、唯一無二のものでしょう。『タワーリング――』は、お話としては大変よく練りあげられた、それこそグランドホテル形式のお手本のような作品なのですから。

 このことは、裏返せば、「人と災害」テーマの作品をつくりあげるとき、観客や読者を惹きつけることができるかどうかの大きな分かれ目のひとつが、ほかでもない「本物らしさ」にあるということの証明でもあります。襲いくる災害に、いかにして現実味を持たせるか。読者に、登場人物たちの身の上を我が事のように心配してもらうためには、彼らの頭上に迫りつつある災厄に、追真のリアリティがなくてはなりません。

 本作『火天風神』では、その点でも、読者は大きな満足を得ることができると思います。若竹さんは、これまで『ぼくのミステリな日常』や『閉ざされた夏』などの作品でも実証済みの丁寧な筆致で、刻々と近づいてくる「それ自体はなんらの悪意も持たない台風」の内包する巨大なエネルギーを、大上段に振りかぶるのではなく、細部のエピソードや描写を積みあげることで表現してゆきます。

 リゾートホテルの滞在客のひとりである、昇華大学映画研究会メンバーの藤原ケイが、釣りを愛する地元の退職教師若松と岩場に降り立ち、荒れ始めた海を目前にして、「この匂い、圧倒的な存在感、海を見たことのない人に映像で海を伝えようなんて不遜だわ」と口走る、印象的なシーンがあります。映研メンバーの言葉だからこそ、ここは思わず頷いてしまうほどの説得力を持っているのですが、同時に、わたしはここに、(でもその不遜なことをやるのが小説家なんだ)という、若竹さんの意気込みを感じます。

 気象予報官になりたいという夢を持ち、でも現実の生活にはくたびれて、「早く枯れたい」と願う十四歳の五原聡。夫と衝突して家を飛び出してきた女性編集者の田村翔子。両親を交通事故で亡くし、自身は聴覚を失いながら、懸命に独り立ちを志す少女祖父江摩矢。屈折した負のエネルギーを身内にためこみ、酒に溺れる管理人の杉田――彼らのほかにも、リゾートホテル「しらぬいハウス」に集まる登場人物たちは、それぞれが皆、満たされない夢や挫折や傷や希望を抱え込み、ちょうど台風と同じように、身体の芯にはぽっかりとした空白の「目」を持ちつつ、どこか自分の行くべきところを求め、悩み、模索している人びとです。読者の皆さま、どうぞ彼らの運命を案じつつ、酷暑をこえてやってきた慈悲深い読書の秋に、七海台風の到来を喜んでください。

新潮社 波
1994年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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