個性豊かな才能「早稲田文士」の雄
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
【前回の文庫双六】直木賞に名を残すその作家の代表作――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/542837
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直木三十五、名前は知っているがどんな人生だったのか? 甥の植村鞆音(ともね)による『直木三十五伝』をひもとくと実に面白い。授業料滞納で早大を中退しながら卒業写真には収まっているというあたりから、いにしえの早稲田文士の面目躍如だ。
文壇・マスコミにあまたの才能を送り出した点で、早大文学部は群を抜く。現在活躍中の卒業者・中退者も多い。その中でとりわけ昔かたぎの早稲田っぽさを感じさせるのが高野秀行だ。
探検家として知られる彼が優れた文章家であることは今さらいうまでもない。『幻獣ムベンベを追え』から始まって一冊読んだらまた一冊と止まらなくなる。だがアマゾンからソマリアまで世界をまたにかけた探検記にも劣らないほど、この回想記は素晴らしい。
高野は大学四年のときから、狭苦しい古アパートに住み続けた。大学は七年かけて卒業したにもかかわらず、そこに延々十一年間もいたのだ。卒業・中退後もぐずぐずと早稲田界隈から離れないとは、尾崎一雄や井伏鱒二の衣鉢を立派に継ぐものではないか。
バブルの世から遠く隔たった貧乏暮しは人間味にあふれ、居住者たちは日本惰眠党だの守銭奴だの、嬉しくなるほど個性豊か。みんなを穏やかに見守る大家のおばちゃんが何とも愛おしいキャラクターだ。
ぐうたら生活の鬱屈や焦燥もしみじみ醸し出されている。探検に旅立ってはまた古アパートに舞い戻るというライフスタイルからついに抜け出す最終章は読者を深い感動に誘う。
ある機会に高野さんの知遇を得て、ずうずうしいとは知りながら「経歴に仏文科卒と入れてください!」と懇願した。何しろ高野さんはかつて卒論をもとに、ドンガラというアフリカの仏語小説家の立派な翻訳を出版しているのだ。すると嬉しいことに近著のプロフィールでは早稲田大学探検部に加え「仏文科卒」と入っているではないか。わが仏文学界の振興に多少の寄与をした気分である。