引きこもりの元に14歳の嫁が来た!? 『大正処女御伽噺』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第71回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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「おとぎ話」は、心を温めるだけじゃない
『大正処女御伽話』桐丘さな

 千葉の少し奥まったあたりで中古住宅を探していることは前にも書いた。
 まだいろいろ検討中だが、物件を見に出かけると、千葉県はいいところだと思う。海も山もあって、田園風景もいっぱい残っている。人もおだやかで、東京のようにこせこせしたところがない。たしかに電車やバスの本数もコンビニの数も少なくて、都会に比べれば不便かもしれない。でも、これくらいの心の余裕があってもいいよね、と感じ始めている。
 今回紹介するのは、そんな千葉が舞台のマンガ。桐丘さなの『大正処女御伽話(タイシヤウヲトメおとぎばなし』である。

 ***

 ときは大正十年。分限者(金持ち)の家に生まれ、愛情以外は何不自由なく与えられて育った志摩珠彦は、自動車事故で母親と右手の自由、そして父からの期待を失った。父から与えられた千葉の別荘に「養生」のためひとりで移り住んだ邦彦は、世の中の全てに嫌気がさし、食欲も失せ、笑うことも忘れて、厭世家としてひきこもっていた。
 ある雪の夜、珠彦のもとをひとりの少女が訪ねてくる。夕月(ゆづき)と名乗った少女は、自分が珠彦の嫁に来たのだと告げた。年はまだ14歳。女学校に通っていた彼女は、父親の借金の返済のため珠彦の父によって1万円(今の5千万円相当)で買われたのだった。
 雪道を30町(およそ3・3km)歩いた夕月に対して、そっけないふりをしながらも珠彦は「風邪をひくといけない」と言って、そっと羽織をかけた。この一瞬が奇跡の始まりだった。このささやか優しさが夕月の心を打ち、彼女は珠彦を信じ、大切に優しくしようと考えたのだ。
 影がなく天真爛漫な夕月は、ひたすら珠彦の役に立ちたいと言い、明るい表情で珠彦のそばで家事をこなしていく。「暗い日々を送りながら衰えて、つまらぬ人生を早く終えたい」と思っていたはずの珠彦も、夕月が来てからは、怒ったり笑ったり、お腹まで減るようになってしまう。つまり、生きようという意欲が体の中からわき起こってきたのだ。
 タイトル通りおとぎ話のような展開だが、このマンガの主要なテーマになっているのは、他人の役に立つことの大切さだ。お金持ちの志摩家の人々は、尊大で他人の苦しみなど考えずに暮らしてきた。

 舞台になっている大正時代は、今以上に貧富の差が激しく、中学校や女学校に行けるのはひと握りの裕福な家庭の子どもだけ。貧しい大半の子どもたちは尋常小学校や高等小学校を出ると家族を支えるために家業を手伝ったり、都会に奉公に出るのが当たり前だった。お金持ちとそうでない人たちの間には接点がほとんどなく、珠彦も世の中の理不尽な仕組みには関わることなく生きられたのだ。
 ところが、夕月と暮らすうちに珠彦は人に感謝することや、人のために何かをすること、人から感謝されることの喜びを知り始める。
 夕月によって変わっていくのは珠彦だけではない。ある日、ふたりのもとにやってきた珠彦の妹・珠子もそうだ。気が強くお嬢様気質の珠子は、夕月の献身的な姿に心を開き、苦しんでいる患者を救うために神戸で開業する叔父を頼って女医になることを決める。
 幸せそうな夕月を見て彼女に嫉妬し、珠彦との仲を裂こうと嫌がらせをした村娘・綾も登場する。彼女の行動もふたりを切り離すことはできず、珠彦と夕月の関係は深まっていく。一方で、綾の幼い弟たちに珠彦は勉強を教えるようになる。本当の綾は弟思いの少女だったのだ。

 第3巻では関東大震災も描かれる。偶然、女学校時代の親友に会うため東京に出かけて震災に遭遇した夕月を救うため、珠彦は奉公に出た弟を探したいという綾を伴い東京を目指す。廃墟と化した帝都には、医療救援団として上京した神戸のおじと珠子が、震災で傷ついた人たちのために働く姿があった。
 ようやく夕月との再会を果たした珠彦は、罹災した託児所の子どもたちのために、勉強を教えようと決めた。焼け残った教科書を読み聞かせるうちに珠彦は、明治天皇の后・昭憲皇后が米大統領フランクリンの教訓を和歌になおした「十二徳」の一編に釘付けとなる。
「国民をすくわん道も近きより おし及ぼさん遠きさかいに」
 何事もまず手近なところから次第に遠くにおよぼさなければならないように、国や民を助けるのもまず身近な人を救うところからはじめなくてはならない、という意味だ。
 苦難から立ち上がろうとする人々の姿を和歌にオーバーラップさせた珠彦は、「いつか人の為に生きられる様な そんな 人間になりたい」と考え、そのためにはまず夕月を大切にすると誓ったのだ。
 こういう展開も舞台が千葉だとありかもしれないという気がする。自分さえよければいい、という風潮が蔓延した都会の人たちに、ぜひ読んで欲しいマンガだ。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2017年12月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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