マンガ賞もお笑い界からの受賞なるか!優しい「交流」の物語『大家さんと僕』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第75回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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ほのぼのとした笑いの中で老いというテーマを描く
『大家さんと僕』矢部太郎

 あけましておめでとうございます。『まんがのソムリエ』は本日が仕事始め。今年も面白いマンガをたくさん紹介します。
 さて、新年第1回目に紹介するのは、矢部太郎の『大家さんと僕』。年末にかなり話題になった作品なので、遅きに失したかもしれないが、そこは大目に見ていただいて……。

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 作者の矢部太郎は、お笑いコンビ「カラテカ」の痩せてるほう。ボケ担当である。最近のお笑い芸人は、芥川賞を受賞した「ピース」の又吉直樹をはじめ、本業以外でも才能を発揮する人が多く、矢部のマンガもまた芸人の余技を超えている。おそらく、今年のマンガ賞やベストテンでは上位に食い込むのではないかと思う。
 主人公は矢部自身。8年前、それまで住んでいたアパートを追い出された矢部は、不動産屋の紹介で、新宿区のはずれの一軒家に引っ越すことになる。建物はもともと二世帯住宅だったもので、矢部が入居したのは外階段を使って上がる2階の部屋。
 1階でひとり暮らしをする大家さんは、80代半ばの上品なおばあちゃん。毎朝早くからきちんとした服装に着替えてゴミを出し、食事も三食自分でつくり、夜も早めに休むという規則正しい生活を送っている。買い物はタクシーで新宿のデパート「伊勢丹」まで。地下の食品売り場やレストランの上客だ。
 ひとつ屋根の下で暮らす大家と店子の距離は近い。洗濯物を干しっぱなしにしていたら「雨が降り出しましたよ」という知らせが大家さんから届いたり、帰宅して部屋の電気をつけると「おかえりなさい」と電話がかかったり。はじめのうちは戸惑っていた矢部だったが、しだいにそんな暮らしに馴染み、大家さんとの世代を超えた交流を楽しむようになっていく。
 庭に咲く花のことや、新宿にも蛍がいたことや、戦争のことや、大切ないろいろなことを矢部は大家さんから教えてもらう。そして何よりも人を思いやる気持ちの大切さに気づいていく。

 前半は4コマ1ページがひとつのエピソード。途中からは4コマ4ページがひとつのエピソードになっていくのだが、起承転結がしっかりしたマンガで、ムダや破綻がない。一見すると日常雑記のようだが、ひとつひとつのテーマは明確で、全体を読むとひとつの長編マンガのようになっている。これってかなり高度なテクニックだ。エッセイマンガと呼ぶより、私小説ならぬ「私マンガ」と呼んだほうがしっくりくる。
 絵も味がある。構図の取り方も、コマごとにポイントが押さえられていて、読みやすい。マンガを描くことに慣れないと、コマの中に要素を詰め込みすぎるか、逆にスカスカになるか、なのだが、とてもバランスがいいのだ。
 矢部の父親は、絵本作家のやべみつのりで、矢部は父親が自分たちのために描いたオリジナル紙芝居などを見ながら育ったのだという。読ませるコツみたいなものを、そこから自然に体得していたのかもしれない。

 一読しただけでは、ほのぼのと笑えるマンガなのだが、深く読むと、そこに老人の孤独ややがて迎えるだろう「死」という問題がシリアスに描かれていて、私はそこが一番素晴らしいと感じた。
 冒頭で不動産屋の担当者から矢部が言われた「大家さんがかなりのご高齢なので 何かあったらよろしくお願いします」という一言は、全般を通じて重要な意味を持っている。
 規則正しい暮らしを送る大家さんが家を空けて、矢部のほうが焦るエピソードがいい。一晩中心配していたが翌朝になると、大家さんが戻ってきた。女学校時代の友達と話し込んでしまって、そのまま京王ホテルに泊まったと聞いて矢部は驚き、ほっとするのだ。
 そして、しばらくした後、矢部が1週間の地方公演に出かけていた間に、大家さんは倒れて、今度こそ入院してしまう。東京に戻り、見舞いのために病院に駆けつけた矢部に大家さんは言う。
「伊勢丹…行きたいわ」
 この一言で、わたしは大家さんにとっての伊勢丹が、単なるデパートではなく、孤独を癒し安心を与えてくれる大切な場所なのだと悟った。歳を取って、昔からの友人や知人が亡くなったり、施設に入ったり、認知症になったりして自分の周囲から消えていく中で、伊勢丹だけが昔のままに自分を迎えてくれる場所なのだ。
 一方で、大家さんが入院してしまったあとの矢部は、心に穴の空いたような思いをする。いつの間にか、大家さんとの時間が、矢部にとっての孤独を癒し安心を与えてくれる時間になっていたのだろう。
 ようやくリハビリを終えた大家さんが、バリアフリーにリフォームされた自宅に帰ってくる最終話には涙が止まらなくなった。そして、大家さんの最後の言葉に思い切りホッコリとなったのだった。

中野晴行(なかの・はるゆき)
1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2018年1月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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