伝説の絵師が描く美少女とトマト『麻衣の虫ぐらし』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第87回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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「命」を読ませる美少女農業マンガ
『麻衣の虫ぐらし』著:雨がっぱ少女群

 最近になって、田舎に引っ越した。田舎といっても、いままでのところから30分遠くなっただけ。1980年代半ばに造成された新興住宅地なので、田舎暮らし感はあまりない。ただ、少し足を伸ばせば畑や田んぼが広がり、農家の直売所などもたくさんあって、新鮮な野菜が安価で手に入るのがありがたい。先日も、トマトを買ってみたのだが、実にうまい。トマトらしい香りがして、酸味と甘味がいいバランスなのだ。聞けば、まわりのハウスは、ほとんどがトマト農家なんだとか。
 というわけで、今回はトマトと関わりのあるマンガを紹介したいと思う。
 雨がっぱ少女群の『麻衣の虫ぐらし』である。作者の雨がっぱ少女群はかつて美少女誌で活躍し、9年前に突然断筆した伝説の絵師。もちろん本作にも美少女がたっぷりと登場するがエロ要素はない。

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 主人公の桜乃麻衣は20歳。入社1年目でリストラされて現在は無職。先の心配はあまりしないのんびり屋。容姿に恵まれず、金もなく、才能もないと本人は思い込んでいるもよう。しかし、本当はチャーミングで、高校の合唱部時代から歌声には定評があり、彼女の魅力をいち早く発見した先輩・小倉紀之の頼みで、彼がシェフを勤める地中海レストラン「ボルボレータ」で毎週土・日の夜にシンガーとしてステージに立っている。中高年の男性ファンが多く、地元の猟友会メンバーを中心に「麻衣ファンクラブ」も結成されるほど。もちろん、紀之も彼女に惚れているが、その関係は先輩後輩から先には進んでいない。
 そんな麻衣が昼間働いているのは友人の清水菜々子がひとりで管理する低農薬栽培の農園だ。メインの作物はトマト。元々は菜々子の祖父が経営していた農園だったが、祖父が体を壊して入院したために、2年前から彼女が引っ越してきて管理をしているのだ。若いが農業に関する知識は豊富。低農薬栽培には益虫・害虫を含めて虫の存在が大きく関わっており、その方面にも詳しい。麻衣を慕っており、ファンクラブの会員でもある。
 このふたりに絡んでくるのが、地元の老舗旅館の娘で、ヒメギフチョウの保護運動などに関わっている須藤来夏。お嬢様体質だが、蝶以外の虫のことにも詳しい。麻衣とのファーストコンタクトでは、着膨れした麻衣を「芋虫」と評したが、「ボルボレータ」で歌う彼女を見て、さえない芋虫が綺麗な蝶に変態した、と感激。ファンクラブの新たなメンバーになる。

 マンガはこの女子3人を軸に、はじめのうちは毎回異なった虫をテーマにした1話完結式のエピソードで綴られていく。
 ビニールハウスでアブラムシ対策に使われるテントウムシの羽を接着剤で固めて飛べなくする、とか、ミノムシは『枕草子』の中に親に捨てられた子という意味で「鬼の子」と書かれていた、とか、ヒメギフチョウがカタクリの花の蜜を吸う、とか……そこを読むだけでもタメになるし、面白い。
 ただ、このマンガの魅力は美少女マンガ的な部分でも、学習マンガ的な部分でもない。虫にも作物にも人間にも共通する「生命」について、しっかりとした視点で描かれているということに良さがあるのだ。

 episode7「ヤマトシミ」では、入院先から菜々子の祖父が家に戻ってくる。治ったわけではなく、余命1~2ヶ月と宣告されて、自宅で最期を迎えるためだった。ここからは、祖父の死を巡るエピソードがしばらく続く。思い出の品をすっかり片付けた祖父は、自分が死んだら菜々子といっしょに家に住んでもらえないか、と麻衣に頼むのだが……。
 このときの麻衣の返事が、このマンガの重要なキーワードになるのだろう。
「空いた場所をすぐに埋めるのは座りがよすぎてかえって怖いというか… 菜々ちゃんの感情を置き去りにしてしまいそうで 大切な人を亡くしたら気持ちを整理する時間が必要です もし その時間が失われたら――」
 自分自身もそうだけど、死後に残していく人については現実的なことしか考えていない人のほうが多い。お金を残せるか、ひとりで暮らしていけるのか……。残された人の心の空白なんて二の次、三の次だ。でも、本当に大切なのは心にできた空白をどうするのか、ということ。それには、ゆっくり時間をかけることしかないのだ。
 祖父だって、死期を迎えてようやくそれに気づいたのかもしれない。一日中部屋で横になっている祖父が思い出すのは、先立った妻のこと。祖父にとって、いくら時間をかけても心の空白は埋められていなかったのだ。そのふたりが手塩にかけてきた農園を、菜々子に委ねられると安心したとき……。
 生命の脆さや、強さ、輝きに、知識ではなく体験として気づいていく麻衣と菜々子と来夏たちが、どのように自然や農業と向き合っていくのか、先が楽しみな作品である。

中野晴行(なかの・はるゆき)
1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2018年3月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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