寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ――小林早代子 『くたばれ地下アイドル』

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【全文無料公開中】「寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ」(小林早代子『くたばれ地下アイドル』より)

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 三年目っていうのは転職したくなる時期なんだよって先輩は言う。そんな誰にでも来る思春期みたいに言わないでほしい。あんたがどうだったか知らないけど私の辛さを一般化しないでくれよ頼むから。
 仕事に慣れてきて中だるみする時期と言われている入社三年前後の社員を対象に、モチベーションの向上を主目的とした一週間の宿泊研修が用意されていた。六日目の夜、研修プログラムを全て終え、あとは懇親会と翌日の移動を残すのみとなり、私はただ疲弊していた。研修でモチベーション上がる奴って存在すんのかな? 一刻も早く逃げ出したい思いを強めるイベントに過ぎないんだけど。この研修にかかる費用の分だけ給料に上乗せしてくれた方がよっぽどモチベーションは上がる。人事課の連中もわかってるけど慣習だからっていう惰性でやってんだろどうせ。
 職場に強い不満はないけど強いやりがいもない。こうはなるまいって思う人はいてもこうなりたいって思う先輩はいない。あらゆることが、ほんのちょっとずつ自分にハマっていないけど、そのどれもが致命的ではなく、要領が悪くないせいで何となくやりすごせてしまう。定年まであと三十五年。永遠か? 永遠にこのままやり過ごし続けるのか? ここではないどこかへ行けば何かが好転する気がするっていうのはやっぱり甘いのだろうか。
 入社当初は二十数人いた同期も十人ちょっとに減っていた。スマートフォンが当たり前に普及した今、昔のように足を棒にしなくても、意志と指先を動かせば少ない労力で転職を成功させることができる。執着するような待遇じゃないことはわかっている。その実、ひどい職場じゃないってこともわかっている。気分転換だ! っつって、ポリシーなく転職しちゃいたいけどその勇気も自信も今のところ、ない。
 半ばノルマみたいになってる上役へのお酌もひと段落し、同期の女たちで寄り集まって卓を囲んだものの、研修会場の宴会場ともなれば目の届くところに人事課の社員がいるわけで、おおっぴらに仕事の愚痴や横行している社内不倫についての話題を出すわけにもいかず、いまひとつ盛り上がりに欠けるままちびちびと酒を飲んでいた。そんな中、一人が「そういえば、私の推しが最近逮捕されたんだけど……」と切り出したのでみんな思わずヒッと息を飲み、「何で何で何で何で!?」とにわかに場が沸いた。
「淫行……」
 ああ……とその場の女たちの口からため息ともつかない呻きが漏れる。
 推しとは、もともとアイドルファン用語で、自分の応援しているメンバーのことを「推しメン」と表現したのがおそらく始まりだが、今となっては意味が広がり、アイドルだけでなく俳優や漫画のキャラクターなど、ご執心の存在なら何でも「推し」と呼ぶのが一般的になっている。確かこの子の推しは若手声優だったはずだ。
「推しが逮捕されるってどんな気持ち? ねえどんな気持ち?」
「いや、うーん、何ていうか……率直に言うと、私の力不足だったかなって」
「意味わかんない。あんた関係ないよ」
「関係ないとか言わないでよ! そんなの私が一番わかってるよ!」
「淫行かー。それはきっついね。せめて飲酒運転とかなら……」
「いや飲酒運転の方がダメでしょ! 人が死ぬかもしれないじゃん!」
「でも淫行よりは飲酒運転の方が犯しちゃった気持ちに寄り添えるよ!」
「だから寄り添う必要ないんだって」
 その点推しが二次元の私に死角はない、と十年くらいずっと同じ漫画の同じカップリングで二次創作を続けている女がドヤ顔で言い張り、うーん全っ然羨ましくない! と口々に言い合う中、きょとんとした顔でしばらく口を閉ざしていた森田愛梨(あいり)が、細い首を不思議そうに傾げて「みんな、推しとかいるもんなんだ? 推しっていう概念がそもそも私にはよくわかんないんだけど」と言い放った。
 女たちに「はあ? あんた何のために働いてんの?」と問いただされた愛梨は、「いや、自分のためだよ! それ以外にあんの?」と何をわかりきったことを、という表情で答えた。
「推しを推すためでしょうよ」
「推しを推すっていうのは推しのためでもあるけど間接的に自分のためでもあるるから……」
 愛梨は「ちょっ、ごめん、何言ってんのかわかんない。大体さー、私、付き合えるわけでもない人間に一切興味ないんだよねー」と笑った。
「お前っ、すげーな」
「強い。あんたは強いよ。眩しいよ」
「えっ、だってアイドル推してて付き合えんの? アニメのキャラ推してて結婚できんの? 無理でしょ?」
「いや、私は推しと付き合いたいかと言われるとまた違うんだよなー」
「ウッソー、じゃあ推しに付き合ってくださいって言われたら振るの?」
「絶対振らないよ?」
「セックスしよって言われたら断るの?」
「絶対断らないよ?」
「ほらみろー!」
「ジャニーズ、ハロプロ、韓流、宝塚、若手俳優、プロレス、芸人、バンド、声優、二次元、フィギュアスケート、これらの罠が各所に張り巡らされてる現代社会に生きてて、マジでどの神も信じてないの? 無宗教なの?」
「うん! 強いて言うなら自分教。だって誰ともセックスできないじゃん! あっ芸人くらいだったらいけんのかな?」
「あんただったらマジでいけそうで怖い」
「よっ、さすが人間マッチングアプリ!」
「昔ちょっとアイドル好きだったことあるけどー、コンサート会場とか行くと冷めちゃうんだよねー。自分以外にもその人のことを好きな女とかがいっぱいいんの、何かキモくない?」
「うわー同担拒否だ。女子高生かよ。引っ込めー」
 ドータンキョヒってなにー? 童貞短小拒否の略? と真剣な顔でしょうもない下ネタをぶちこんできた愛梨はもう適当にいなされ、最近までフィギュアスケーターを推していた女の「ところで私、プロ棋士にハマりそうなんだよね」という急な推し変告白に関心がうつった。棋士ってジャンルは未知数でどのくらい時間と金を持ってかれるもんなのか全くわかんないけど、何かヤバそう。

 愛梨のように強くない私の世界には推しが存在している。愛好ジャンルはアイドル、もっと細かく言うならば「大手アイドル事務所の研修生」だ。DD(誰でも大好き)オタというほどではないにせよ常に推しは複数いて、今の本命はゆんちという愛称で親しまれている十八歳の男の子だ。
 以前は母の影響で某国民的男性アイドルグループを箱推ししていたが、デビューしてから二十年以上経つ彼らは、良くも悪くも大団円感が強くて、漫画で言ったら第五部くらいまで完結してるだろっていう落ち着きっぷりに飽きてしまった。幼い頃から応援していたので、一緒に人生を歩んできたという感慨はある。私が小学生の頃から、別ジャンルにハマっていて疎遠だった時期も、大学を出て社会人となった今も、彼らは変わらずアイドルなのだった。長いこと見ていると、ああ、この人は色んなことに折り合いがついたんだなっていう瞬間がわかったような気になる。アイドルっていう職業への覚悟とか、満足感とか、慣れとか、諦念とかが綯い交ぜになった貫禄をいつしか彼らは持ち合わせていたのだった。私は自分がつくりあげた彼らの物語に勝手に切なくなってしまう。
 そういう感傷を与え続けてくれる彼らのことを、多分これからもずっと変わらず好きだけど、目が離せない時代はとうにすぎてしまった。ファンの多さもゆんちとは桁違いだし、もう安心だ。私の上を通り過ぎていった心の元カレたちよ、私の知らないところで幸せになってくれて構わないよ。
 その点研修生というジャンルの目の離せなさと言ったらない。入所オーディションの時はそのへんでちょろちょろしている子どもなのに、みるみるうちに歌やダンスを覚える。身長が伸びる。声変わりをする。メイクが上達する。立ち居振る舞いがアイドル然としていく。アイドルとしての成長のスピード感が段違いで酔いそうになる。特に、夏休みに集中する現場仕事やそれに伴うレッスンが詰め込まれる研修生の一夏は長くて、研修生たちは夏を超えると別人のようにパフォーマンスレベルが上がっていたり体つきが変わっていたりする。
 それぞれに成長し、他の研修生との関係性を深めながらも、彼らの中でグループを結成してCDデビューに至れるのはごく一部の選ばれた者のみで、大多数はひっそりと退所していく。ともすれば、アイドル未満とも言える彼らの物語は、連載開始に漕ぎ着けることができるかすら定かではないのだ。めまぐるしく変化する彼らのうち、誰がいつ華々しくデビューするのか、それとも淘汰されるのか予測がつかず、片時も油断できないし目が離せない。
 私の推し活は、推しがデビューを決めた時、あるいは夢破れて退所する時に思いっきり泣くための準備みたいなもんだ。

 推しという概念がわからない「人間マッチングアプリ」こと森田愛梨と私は、趣味は全然合わないけどなぜか気は合って、しばしば合コンの人数合わせなどにお声がかかり、誘われるがまま参加したりする仲だった。堅実めの社員が多い職場でパリピ寄りの愛梨ははっきり言って浮いていて、中には露骨に彼女を軽視している人も多い。「ちさぱい今週末飲もうよー」なんつって私のデスクまでひょこひょこやってくる愛梨に対して周囲で含み笑いの目配せが行われたり、愛梨の話題を出すと「ああ、あの森田(笑)ね」と嫌なやり方で笑われたりすることもままあるが、義憤に駆られて彼女を庇うでもなく、そうですーその森田ですーなんつって適当にやり過ごす私の良心が痛んだりすることは別にない。
 私が神谷と出会ったのも愛梨に誘われた飲み会だった。
 神谷は、愛梨が学生時代にインターン先で知り合った男の子の就職先の同期とか、確かそんなんだったと思う。毎週末フットサルやってますみたいな顔した根アカの男と連れ立ってやってきた神経質そうなメガネが神谷だった。
「ちさぱいはー、ちさぱいって呼ばれてるけどおっぱいは小さくないから大丈夫だよー脱いだらすごいんだよー」
 愛梨は飲み会の度に自己紹介のくだりで律儀に説明してくれるけどそもそもお前しかそのナメたあだ名で呼んでねーんだよと思いつつ私も毎回「もうちょい夜が更けたら巨乳ギャグ披露しますねー」と大してウケるわけでもないやりとりを繰り返してしまうし、万一に備えて巨乳ギャグは二つほど用意してある。
 二度と会うこともないような人間との飲み会に慣れると、その場しのぎの受け答えばかり上達してマジレスの仕方を忘れる。
 浅いとか深いとかダサいとかオシャレとかいうマウンティングと無縁で、掘り下げられすぎることもなく、かつまるきりの嘘でもない合コンコミュニケーションを私は常に模索している。
 趣味を聞かれれば「最近は献血ですかねー。成分献血って知ってます? 血から必要な成分だけ抜いてあとは戻すやつなんですけど、ヌくのもイれるのもできるんでお得ですよ」つってライトな下ネタで場をあっためる。好きな音楽の話になれば、誰でも知ってて音楽通にもウケが良くて気取ってないバンドの最適解ことスピッツを申告する。私がリアルに多用している最新版合コンさしすせそは「さすがっすわー」「しんど!」「すさまじいね」「世紀末かよ」「それマジのやつじゃん(あるいは「そういうとこあるよね~」)」でファイナルアンサーです。とりあえずその場をしのぎたい、モテを重視しない方のみ参考にしてください。
 ドルオタの集いでも何でもない飲み会の場でアイドルが好きなんて言うのは悪手、コミュニケーションの摩擦が生まれてお互いにそよそよとしたストレスを感じるだけだ。だからこそ、フットサル顔が「俺は休日はだいたいフットサルやってるなー」と清々しいほど意外性ゼロの発言をした後に神谷が「僕の趣味は、専らアイドルですね」と言ってのけた時、へーお前の合コンスタンスそういう感じなんだ? 私が言うのも何だけどモテる気あんのか? と一抹の不安を覚えた。
 愛梨は、「おっ、ちさぱいもわりとアイドル好きじゃなかったっけ~?」と、私がどの程度の熱量でアイドルを語るかを委ねる言い方でトスを上げた。愛梨はパリピだけど空気が読めるので、合コンの場で私がドルオタであることと遠恋中の彼氏がいることは基本的に伏せておいてくれるのだった。
 神谷に推しているアイドルを尋ねると、川上ももなっていう子なんですけど……と私が女子ドルで今一番注目している女の子の名前をあげたので、「おっ、もにゃ推しなんですね~」と相槌を打つと、「もにゃをご存知なんですか!?」と眼鏡の奥の目をかっぴらいた。もにゃこと川上ももなちゃん十四歳は女子アイドルグループを多く擁する大手事務所の研修生だ。昨年夏に行われた入所オーディションの合格者発表の時に、ほかの女の子たちが不安そうに瞳を震わせている中、半ギレの目で審査員一同を睨みつけるように見ていた視線が印象的だったので私の研修生レーダーに引っかかっていた。私がもにゃを把握していることに神谷はたいそう興奮し、もにゃがいかに天使で自分の生きる喜びになっているかと言うことを滔々とまくしたて始めた。うわ~。こいつ喋るタイプのオタクか~。この時点で愛梨は神谷を完全に度外視し、フットサル顔にフルスロットルの構えを見せていたので私も気合いを入れて爆弾処理業務にかかることにした。
 神谷は、私や愛梨と同じく社会人三年目だけど大学院を出ているので年齢は二つ上だった。軽い気持ちで専門を聞くと、「マングローブにしか生息していないコオロギを使って体内時計の仕組みを研究していました」と言うので、思わずごめん何て? と聞き返してしまった。さほど興味のある分野ではなかったが、風変わりな教授に気に入られてほとんどマンツーマンで研究をしているうちにだんだん面白くなってきたのだという。博士課程に進むつもりだったのに指導教授がサバティカルに入ったので断念したらしい。それで今は大手食品メーカーの研究職に就いているのだそうだ。それってコオロギと関係あるんですか? と聞くと、あるといえばあるし、ないといえばない、と神谷は言った。意味がわからん。とりあえず、さすがっすね~、と相槌を打ったら怪訝な顔をされた。その後もいくつか当たり障りのない質問をしてみたが、どうも私たちの間には共通言語がもにゃ以外に存在せず、神谷はその他のこととなると極端に口数が減ることが明らかになった。仕方ないので酒を多めに飲んでボルテージを上げ、「古今東西もにゃに言われたい台詞ゲーム」を始めてアホほど盛り上がった。最優秀賞が神谷の発案した「本当はほかに好きな子がいるのにもにゃに弱みを握られてさんざん振り回された後に涙目で言われる『もう、離してあげる……』」に決定したあたりで、パカパカ機嫌良く白ワインを飲んでいた神谷が、手練れに手刀でもかまされたのかな? ってくらい何の前触れもなくテーブルに崩れ落ちた。フットサル顔が、「いやー神谷これまでになく飲んでたからね~」とケラケラ笑いながら言った。じゃあ止めろよ。何面白がってんだよ。「めっちゃテンション高かったよね~よっぽどちさぱいちゃんのこと気に入ったんだろうね~」おいおいどうすんだよこいつ~。有無を言わせずフットサル顔に介抱させたいところだったが、愛梨が言っとくけどうちらこの後やる気満々だからな……という念を送ってきたので腹を決めて神谷もろともタクシーに乗り込んだ。ひょろい体を後部座席にぶち込みながら、あからさまに嫌な顔をする運ちゃんに「大丈夫です! この人絶対吐かないんで!」と宣言した。知らねーけど。マジで頼むから絶対吐くなよ。

Book Bang編集部
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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