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- おもてなし時空ホテル
- 価格:605円(税込)
はじまりはじまり
はなぞのホテルは、北日本のとある都市でひっそりと営業している。
仮に、S市としておく。
所在地については詳しく語れないのだ。
はなぞのホテルがいかなるホテルか、それを知ったあなたが、おいそれとやって来られないための用心である。
これは決して、いけず、ではない。
来られたらマズイ、泊まられたらマズイのだ。
来たら来たで、お客さんはていよく追い返されてしまうのだけど。
それならばホテルの看板など出すなというところなのだが、どっこい、このホテルはなくてはならぬのである。
そんななぞめいたはなぞのホテルは、S駅近くのアーケード街を北側に折れた小路に鎮座している。
角にファストフード店があり、そのとなりに洋風のこじゃれた居酒屋があり、その向かいに花屋があり、理髪店があり、そこまではお客さんの姿をよく見かけるのだが、そこから先の画廊と骨董(こっとう)屋には店主以外の人間が出入りするのは、めったに見ない。
コインランドリーと製氷店のとなりが、タイ料理屋。そのとなりが、眼医者。そのとなりが、地方劇団の稽古場。そのとなりが、はなぞのホテルだ。
タイ料理屋の店主の父親――じいさんが、パイプ椅子を表に出して、よく日向(ひなた)ぼっこしている。たまに気が向いた朝などは、交通整理をしていたりする。
そうかと思えば、一帯でさまざまな名前を持つ野良の黒猫が、ホテルの外階段のなかほどから、たまに通る人間をじっと見つめている。
十一月十八日(日)
その日、チズ――桜井千鶴(ちづる)というちょっと古風な名前の彼女は、はじめてはなぞのホテルを訪れた。
昼間だったので、ネオンの看板には灯りが入っていなかった。
看板は「はなぞのホテル」の「は」の字が取れて、「なぞのホテル」と読めた。
「見て、なぞのホテル、だって」
カンナがそういって笑った。
長い茶色の巻き髪で、提灯袖(ちょうちんそで)のブラウスに、リボンとフリルをたっぷり使ったワイン色のエプロンドレス、ストラップの付いた厚底靴といういでたち。カンナのお気に入りの、ロリータファッションだ。
いくら着慣れているからといって、面接にこの服装はないだろうと、チズは思った。
いかにも。カンナは、はなぞのホテルの客室係の面接試験に来たのである。
チズは「どーせ、ヒマでしょ」と悪気もなくいわれて、ついて来た。
実際、チズはひまだった。先月まで契約社員として広告代理店に勤めていたのだが、契約が更新されなかった。だから今は無職で、チズ自身、職探しをしなければならない身の上だった。できれば、正社員として働きたい。さもないと、千葉の両親が帰って来いといってうるさいのである。無職だなんてことを知られたら、母なんか速攻、見合い写真を持って飛んでくるはずである。
就活に失敗したんだから、婚活しかないのよ。
母はきっと、そういう。
カンナの方は、ケーキ屋の一人娘である。家の手伝いもいいけど、外で働いてみたいと一大決心したらしい。でも、その決心は着ているものには現れていないようだ。そう指摘してみたら、カンナは「これで、いいの」と胸を張った。
「洋服はあたしの一部分だから、それも含めて見てもらいたいの。就活スーツを着たあたしなんて、あたしじゃないもん」
社会人経験のないカンナのポリシーが、正しいのか正しくないのかチズにはわからなかったけど、そこまで主張できる自分というものを持たない身としては、うらやましい気もする。
「でもさあ、ここってどういうホテルなのかなあ」
カンナが、目をきょときょとさせた。
マイペースのカンナらしく、面接を前にのんきなことをいっているのだが、その疑問はチズも同じではあった。
はなぞのホテルは、とてもユニークなホテルのようだ。たたずまいが、古めかしくて、とってもこぢんまりしている。外観からして、まるで、むかしの外国映画のセットを見ているみたいだ。煉瓦(れんが)造りの三階建てで、螺旋(らせん)の外階段があり、出入り口はガラスの回転ドアに擦り切れた金メッキの手すり。今にもタフガイの探偵とか、ひとくせある淑女とかが、靴のかかとを鳴らして出て来そうだ。
「このユニークさが売りのラブホだったりして? 求人票には、書いてなかったけど」
カンナがそんなことをいう。
「ラブホって、もっとキラキラしてない? 行ったことないけど」
「行ったこと、ないんだ? あはは」
笑われて、カチンときた。
「チズちゃん、ラブホなんか行かない方がいい。チズちゃんがラブホに行ったら、世界が終わっちゃいそうな気がする」
「どういう意味ですか」
そりゃあ、彼氏は居ないけど。と、チズはむくれる。
「そろそろ時間だし。入ってみようか」
人工芝の玄関マットを踏んで、厚いガラスの回転ドアを押した。
板敷のホールの向こうにフロントがあり、壁に沿ってソファセットが二組並んでいる。深緑のビロード張りで、金色のふち飾りがレトロでゴージャスだ。飴色(あめいろ)の柱時計が、二時二十五分をさしていた。西側の窓から入る光線は、早くも夕焼けの気配を忍ばせている。壁は漆喰で、ロシア・アヴァンギャルド風のポスターが二枚並べて飾ってあった。重厚な木の手すりがついた階段が、ホールを囲むような形で二階へと延びている。
「ごめんくださぁ……い」
フロントにはだれも居なくて、ロビーにもお客さんの姿がない。
カンナはフロントのカウンターまで歩いて行くと、銀色の半球体の呼び鈴を押した。
金属の音が思いのほか高く大きく無人のロビーに響き渡り、ひとごとながら緊張していたチズは、背中がビクンとなった。それなのに、だれも現れる気配がない。時計の振り子の音だけが、空気に小さな波紋を投げていた。
「カンナちゃん、面接、何時から?」
「二時半」
「あと四分」
「早く来すぎた?」
「そんなわけないよう」
カンナがもう一度、呼び鈴に手を伸ばしたとき、食堂に続くドアからころころ太った女の人が現れた。白いコックコートを着て、三角巾(さんかくきん)をかぶっている。チズたちのすぐそばまで来て、二人の顔をジトリ、ジトリとにらみつけた。左胸にネームプレートが留めてあり、「吉井(よしい)」と丸ゴシック体で書いてあった。
「面接に来た人?」
「はい」
カンナが片手を挙げ、チズは「いえ、いえ」とかぶりを振った。
吉井さんは、カンナの可愛すぎる服装を、さらにジトリ、ジトリと見回す。何かいいたそうな顔をしたが、それをごくりと飲み込んで、自分ののどを手でこすった。
「ごめんなさいね。支配人が、会議からもどるのが遅れてて。ちょっと、そこで座って待っていてくれる? 悪いわね」
吉井さんは、にこりともせずにロビーの長椅子を指さした。
そして、ぶつくさいいながら、出て来た食堂の方にもどって行った。
何をぶつくさいっていたのかというと、はなぞのホテルが人手不足で、コックの自分までが客室係の仕事をしなくちゃいけない。かといって手当が付くわけでもなし。これじゃあ、ブラック企業ではないか。……なんてことである。
「こんな急に、VIP用幕の内弁当を五十人前なんて、無理だわー!」
とどめに、吉井さんは叫んでいた。
「VIP用幕の内弁当……?」
「五十人前……?」
チズとカンナは顔を見合わせる。
(でも――)
面接を受けに来た場でブラック企業なんて言葉を聞くのは、おだやかではない。しかも、責任者であるところの、支配人が約束の時間に遅れるとは、いかがなものか。チズは内心で憤慨したのだが、カンナのやる気に水をさすのもどうかと思い、口には出さなかった。
カンナはやはり緊張していたのだろう、腕時計を見て、スマホを見て、柱時計を見て、そわそわしている。
「静かだね」
沈黙に耐えられなくなったようで、カンナはぽつりといった。ひとりごとみたいに聞こえたけど、チズは遠慮がちにうなずいた。
「うん」
「大丈夫なんだろうかね、ここ」
その問いかけには、答えようがない。チズが黙っていると、カンナはスマホをいじり出した。それから、なんと、四十五分も待ってしまった。支配人という人はもどって来ず、吉井さんは食堂に消えたきりだ。
「てか、待たせすぎ。四時にミツルと待ち合わせしてるんだけど」
「彼氏、仕事は?」
そう訊(き)くと、カンナはからかうように笑った。
「やあだ、今日は日曜日だよ。チズちゃん、会社を辞めて曜日の感覚がなくなってるね」
「ごめん」
辞めたのではない。クビになったのだ。でも、訂正したら胸が痛くなりそうで、そのままにした。
それからさらに三十分が経過して、三時四十五分になった。
面接に一時間十五分も遅れる経営者というのは、ちょっと反則、ちょっと失格だろう。
だから、カンナが帰るといい出したのも、無理からぬことではあった。
「チズちゃん、ごめん。付き合ってくれたのに」
「面接、どうするの?」
「パスする」
「じゃあ、あたしここで、支配人さんって人を待って、あんたが帰ったっていってあげる」
そうしたら、向こうはすまなく思って、別の機会を設けてくれるかもしれない。今日のことが、先方のペナルティになって、次の面接では合格にしてくれるかもしれない。
「いいよ。そんなの。チズちゃんに悪いもん」
「ひまだから、大丈夫」
明るくいうチズに、カンナは「ごめんね。ごめんね」といって、何度も手を合わせた。
その後ろ姿を見送って、もう一度柱時計を見る。
(それにしても、支配人って人、おそい)
正面口の回転ドアが回ったので、ようやく「帰って来た」と思って顔を上げると、そこには支配人ではなく十歳ほどの男の子が居た。顔立ちの整った利発そうな子どもなのだが、少しばかり変な格好をしていた。ハロウィンのカボチャ提灯が描かれたTシャツに半ズボン、大人用の雪駄(せった)をはいて、大人用の背広を裏返しにして着て、つばの広い麦わら帽子をかぶっている。まるで取り込んだ洗濯物を、ふざけて手あたり次第に着こんだような感じだ。
そんないたずらをして、大人に叱られるのを期待して面白がっているのかといえば、まったくそんな様子はない。きわめて、真面目なのだ。整った顔をキリリと引き締めて、鋭い目つきでこちらを見ると、すぐに目をそらして階段を駆け上がった。二階から上は客室のようだから、泊り客の子どもなのだろうか。
(泥棒かも)
思わず立ち上がってしまったのは、少年の目付きがとても鋭かったせいである。
階段を見上げていたら、コックの吉井さんが再び登場した。ぴかぴかに磨かれたお玉を持って走って来たかと思うと、思い出したように食堂の方にもどっていった。それから数秒もしないうちにまた現れて、意気消沈した顔をする。
「あああ、面接の子、帰っちゃった?」
「はい、四時に約束があったみたいで」
「そうよね、帰るわよね。こんなに待たされたら、帰らない方がどうかしているわ」
そういってから、帰らずにいるチズを見て慌てた。
「ちがうのよ、あなたは、どうかしてないわよ。大丈夫、大丈夫」
かなり狼狽(ろうばい)の態である。チズはあいまいに笑ってみせた。
「採用前だけど、客室の掃除を頼もうと思ったのに。もう、厨房がてんてこまいで、間に合わないのよ」
吉井さんは、行ったり来たりしながらコックコートを脱いで、チズに手渡す。
「客室の掃除しなくっちゃ。今日のお客さんが来ないうちに――」
「あの――良かったら、わたし、しましょうか?」
「え? 本当? 本当に?」
吉井さんの顔が、ライトを当てたように輝いた。
失業して以来、だれかを喜ばせることなんか一つもできていなかったチズは、胸がほくほく温かくなった。
「お言葉に甘えちゃおうかしら。日当はもちろん、払うから」
「は――はい」
勢いで引き受けてしまったチズに、吉井さんのオロオロが感染した。
ホテルの客室掃除など、まったく経験がない。
一階のトイレのわきにある掃除用具室から、丸い大きな掃除機と、バケツとブラシを取り出した。長いコードをコンセントにつなぎ、一階のホールとロビーを、食堂とスタッフルームを、階段を、そして二階の廊下を、埃を吸って回った。
客室は、二階がツイン二部屋とシングル三部屋。シングルルームの一室には「起こさないでください」の札が掛けてあった。三階はスイートルーム一部屋とダブル一部屋がある。
小さなホテルだ。そうかといって、チズが一人で掃除して回るには、充分すぎる広さである。
チズは三階の部屋から掃除機を掛けた。
三階の部屋はいずれも宿泊客がなかったようで、ベッドメイキングもされて、掃除完了を告げるトイレットペーパーの端も折られている。
(こういう場合は、どうしたらいいのかな)
部屋の床と廊下に掃除機を掛けて、二階に降りた。
こちらは全ての部屋が使われていたから、なかなか骨が折れた。慣れない身には、ベッドを整えるのは格闘技に近い。風呂場の排水口にたまった髪の毛にも、かなり引いた。ブラシで便器を磨いて、スポンジで洗面台を磨いて、備品を整えて、トイレットペーパーを足す。これで、ようやく一部屋終わった。
リネン類を載せたワゴンを押していると、「起こさないでください」の札が掛かっているシングルルームから、小柄な老婦人が出てきた。白髪をきれいにパーマで整えて、焦げ茶色のワンピースに真珠のブローチを付けた、品の良い人だ。
「まあ、ご苦労さま」
私服で掃除用具と格闘しているチズを見て、老婦人は気丈に生きてきた人特有の、穏やかで凛とした調子で話しかけてきた。
「わたし、今から出掛けてくるの」
「いってらっしゃいませ」
ホテルのスタッフとして扱ってもらえるのが嬉
しくて、チズは礼儀正しくいった。契約を打ち切られて半月、自分はずっと働きたかったんだなあと、改めて思う。
老婦人はおしゃべり好きな人らしく、言葉どおりには立ち去ろうとしない。
「若い人たちの居るところに行かなくちゃならないの。うまく用事が済ませられるかしら。なんだか、心配なのよ」
老婦人はハンカチを鼻のわきに当てて、深呼吸する。
「お部屋、これから掃除していただいていいかしら?」
「はい、もちろんです」
「いつも、きれいにしてもらって助かるわ」
「いつもは、わたしじゃないんですが」
「知っているわ。支配人さんとコックさんが二人でしているのよね。あなたは、新人さん?」
「いえ、あの」
面接を受けに来た者の友人です。と正直にいうのも、おかしい。チズが口ごもっていたら、老婦人は不意に金色のティアラのようなものを取り出し、それをチズの頭にかぶせた。
「え? え?」
カチッと音がする。慌てたチズが頭に手をやったのだが、どうした具合なのか、髪に隠れてしまって手に触れなかった。
(え? え?)
老婦人は「いいから、いいから」というように、チズの二の腕をなでる。
「それじゃあ、わたしは行ってきます」
翡翠(ひすい)の大きな指輪をした手を振って、老婦人は階段に向かった。
ティアラをしている客室係とは――。まるで、変装を解き忘れたシンデレラみたいだ。
(後で鏡を見てみよう)
チズは気を取り直して、重たい掃除機を老婦人の部屋に運び入れた。床の埃を吸い取って、ユニットバスの掃除をする。老婦人は几帳面な人らしく、部屋は少しも汚れていないので楽をした。机の上のティッシュの角を折って、この部屋も完了だ。
浴室の鏡に自分の姿を映してみたのだが、どうしたわけかティアラが全く見えない。両手で髪の毛の間をまさぐってみても、見つからないどころか、指にも当たらないのだ。一瞬、髪の毛がちらちらと金色に光ったように見えたけど、光の具合なのか。
(気のせいだったのかな)
老婦人は、チズの頭にティアラなんか着けなかった。
そういう結論に達して、無理にも納得することにした。
さあ、あと一部屋だけである。
さっき階段を上がっていった男の子を見かけていないけど、この部屋のお客さんなのだろうか。チズは残る一つのシングルルームのドアを、遠慮がちにノックしてみた。
*
最後の部屋のドアを開けたとき、チズの前から現実が消え去った。
まったくもって、映画のように、はたまたイリュージョンのように、消えた。
いや、もっとリアルかつダイナミックに消えた。
ドアを開けたら、そこは雪国だった……よりも驚いた。
そこは仙境だった。
もちろん、チズは世界中の多くの人と同じく、仙境など見たことがない。
しかし、水平方向にも垂直方向にも無限に広がる空間に、雲海の合間から浮かぶ小道がにょろにょろと伸びている――これを仙境といわずして、何という?
細長く切り立った岩山が、高く低くそびえ、その中腹や頂上には盆栽みたいに形の良い松が生えていた。
空はオパールと真珠を混ぜたような、底抜けに神秘的な色をしている。
小道の果てには、庵(いおり)というのだろうか、あずまやをゴージャスにしたような一軒家が建っていた。
雲海の切れ目から、はるか下の地表が覗けた。
無人の田園風景である。山羊(やぎ)や鹿が草を食(は)み、白い鷺(さぎ)が飛んでいた。
(…………?)
ぱちくり、ぱちくり、二度またたきをしたチズは、われに返る。
後ずさって、辺りを見回すと、擦り切れたカーペット敷きの廊下が左右に広がり、それは無限どころか二部屋と物置の分の長さしかなく、突き当りは非常用の外階段に続くドア、もう一方の突き当りは古臭いスチールの枠の窓である。隣室のドアがあり、足元には床がある。まぎれもなく、はなぞのホテルの二階の廊下だ。
しかし、問題のシングルルームに目をもどすと、広大無辺の仙境が広がっている。
(なんで?)
絶対に、ありえないことだった。
友だちの面接に付いてきて、客室の掃除を買って出たのも、ちょっとウソくさい話だけど……さっきロビーに入って来た少年の風采(ふうさい)も変だけど……老婦人からティアラをもらったのも不思議な話だったけど(しかも、頭に乗せたとたんに見えなくなり、触れられなくなってしまった。だから、気のせいだと無理にも思い込んだ)、しかしながら、この部屋の不思議さはケタちがいである。
チズは大いにうろたえ、そして躊躇(ちゅうちょ)した。
だけど、この超常現象を前にして、部屋に――いや仙境に入らずにいられるほど、チズは好奇心のない人間ではなかった。雲海に浮かぶ小道は、おあつらえ向きに、チズの足元からのびているのである。
だから、チズは一歩踏み出した。
「うわお!」
ときおり曲がりくねったその道は、空港にある水平型エスカレーターのように、一歩進むごとに百歩分も進んだ。いや、水平型エスカレーターは一足で百歩も進めないけど。
最初は足がすくんで、めまいがした。しかし慣れると、珍しいアトラクションで遊んでいるような気がしてきた。
一歩で百歩! 一歩で百歩!
またたく間に、彼方(かなた)にあった庵にたどり着く。
飾り格子(ごうし)のある大きな丸窓がうがたれた庵の中には、白髪と白髭(しらひげ)を長く伸ばして、ゆったりとした麻の衣をまとったおじいさんが居た。ジャスミンティのかおりがする。びっくりするほど上手な字で、漢詩が飾られていたけど、チズには一文字も読み取れなかった。
「こっちゃ、来い」
おじいさんは、穏やかに微笑(ほほえ)んでいる。
「うわあ!」
チズは無礼にも悲鳴を上げ、走って逃げ帰った。帰り道も一歩ごとに百歩分も進んだから、ものの十秒も立たないうちに仙境を抜け、後ろ手でドアを閉ざす。
(何も見なかった。わたしは、何も見なかったんだ)
ドアの方を見ないようにして、チズは階段を駆け下りた。
*
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