十一月十九日(月)
翌日の新聞に、君江さんが孫娘の交際相手を刺殺したという記事は載らなかった。
一日だけの手伝いのはずが、チズは次の日もはなぞのホテルに居た。
フロントのカウンターの奥にあるスタッフルームに通された。
せまいが、何でもある。
四畳半の畳敷きの空間に、板の間が二畳くらい付いている。
流しと小さな食器棚と冷蔵庫、簡単な応接セット、重ねられた十枚ほどの座布団。書類用のキャビネットの上には小型の液晶テレビが載っている。事務机とノートパソコン(五十嵐さんのタブレット端末みたいな超新型ではなく、おそらくOSのサポート期限が切れているような古いタイプのもののようだ)、富山の置き薬の赤い紙箱、まねき猫、福助、七福神の土人形、木彫りの熊、買い置きの箱ティッシュ……など。
小さめの応接セットに、五十嵐さんと吉井さん、ようやく帰って来たホテルの支配人と、チズが腰かけている。
支配人は、丸顔に丸っこい体形で手足が短く、ハンプティダンプティみたいなおじさんだった。ぴんととがった口ひげを生やし、ちょっと薄くなった髪の毛を丁寧に撫でつけて、濃灰色の三つ揃いのスーツに金鎖の懐中時計なんかしている。わざと童話とかの登場人物を気取っているように見えた。
その支配人は、五十嵐さんに睨まれて、たじたじしている。
五十嵐さんは、怒りと呆れが混ざった顔で、チズを見て、吉井さんを見て、支配人を見た。そして、懸命に感情を押し殺した声を、空中に放った。チズたち三人のだれかの顔を見ていったら、怒鳴り出しそうなんだ、だから目をそらしているんだと、顔に書いてある。
「彼女は――」チズのことだ。「はなぞのホテルの従業員じゃないのか」
それは、大変なことらしかった。
客室係の手伝いをしてから、大変なことの連続だったから、チズが部外者であることが本当に大変なことなのだというのは理解できる。しかし……。
「それをいおうとしたら、五十嵐さんがこの子を連れて行っちゃったんだもの。どっちみち、この子しか市村君江さんの顔を知らなかったんだから、仕方なかったんじゃないの?」
吉井さんのいうことは、一理も二理も三理もある。チズにとっては、あれよあれよという間に巻き込まれた事故だったのだ。責められることなんか、これっぽっちもしていない。
それでも、シュンと固まったチズを見て、支配人が口ひげをひねった。
「婚活パーティの事件を未然に防げたのは、桜井さんの活躍のたまものです」
「え……」
昨日からの疾風怒涛の連続の中で、初めてほめられた。チズはちょっぴり嬉しくなった。
支配人は濃い眉毛の下の目をきらきらさせた。
「どうでしょうね、桜井千鶴さん。求職中なんだったら、うちで客室係をしませんか? そうしたら、こちらでも昨日からのことを説明してあげられるんですけど」
「はあ……」
チズは、返事の言葉を選びかねた。
ものすごく変なことが起きたのだ。このホテルに勤めるとか勤めないとかいう前に、怪事件の数々を解明してもらうのが筋なのでは?
しかし、答えを全部、知ってしまったら、いよいよとてつもない面倒に巻き込まれそうではないか。いや、現にもう巻き込まれている。
(わかんないけど)
起こったのは殺人未遂事件だ。チズは刑事事件にかかわってしまったのは事実である。
気持ちがシュンとなった。つまり、ビビった。それ以上に、この謎を謎のままにして、残りの人生を送るなんて、死ぬまで残尿感を覚え続けるのに等しいが……。
「どうですか? 市村さんの泊まっていた部屋、あなたの掃除とベッドメイキングを見ましたが、なかなか丁寧な仕事をしていて、大変に結構でした」
支配人のほがらかな物いいは、場違いな感じがした。
「でも、あたしの友だちが面接に来たのでして、あたしが採用になったら、友だちに悪いかなあと……」
チズも、われながらトンチンカンなことをいっているなあと思った。
「時給は、一五〇〇円払います」
それはうれしい! なにせ、こちらは失業中の身なのだ。
「支配人、いいんですか? この人は、ただの――」
いいかけた五十嵐さんを、支配人が遮った。
「いや、この人には素質がありますよ。時の仙人もそういっていました」
時の仙人。
あのありえないシングルルームに居た、白髪白髭のおじいちゃんのことか。
「あの――」
チズは、おそるおそる口を開く。
「話がずっと見えないんですけど、客室係ならできるかなあ、と」
「よし決まりです」
支配人は、ぶ厚いてのひらをこすって嬉しそうにいう。
「では、覚えてもらうことは、たくさんありますよ」
「あたしは、コックに専念できるんなら、大歓迎ですよ」
吉井さんはやれやれといった様子で、チズの二の腕をぽんとたたいた。
そこへ、五十嵐さんと同じような黒いスーツの女の人が入ってきた。女性だからパンツではなく、ひざ丈のタイトスカートだ。髪の毛は肩まで伸ばしたサラサラのストレートで、体形や顔立ちから若くてきれいな人のようだが、やっぱり真っ黒なサングラスで目を隠している。
支配人は黒服の女性に向かって片手を差し出し、チズの方を目で示した。
「やあ、夏野さん、紹介します。こちら、新しい客室係の桜井千鶴さん」
夏野さんは、にこりともせず、こちらに顔を向けて小さく会釈(えしゃく)した。そして、チズの挨拶を待つでもなく、新聞を差し出す。
「動機はこれです。今から三年後の十一月十日」
前置きなしに、夏野さんは冗談みたいなことをいった。
チズは一同の顔を見渡して、今のが冗談ではないらしいと判断する。
しかし、今から三年後って……。
夏野さんが差し出したのは確かに三年後の新聞だった。ベタ記事が赤線で囲まれている。
S市W区に住む田中久雄(28)が、生後二ヵ月の長男・宙(そら)ちゃんを、床に打ち付けて死亡させた。田中容疑者は、赤ん坊が叱っても泣き止まないから腹が立ったと証言している。
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珍しくないことだから、ベタ記事なのだろう。
そういう諦めが、沸き立つ怒りとともに起こった。吉井さんが、「こんなやつは、同じようにして死刑にしたらいいのよ」と怖い声を出し、支配人はハンカチを口にあてて、新聞を怨敵(おんてき)のようににらむ。黒服の二人の顔に感情は現れなかった。
「田中久雄とは、市村君江が殺害した――殺害しようとした、孫娘のお相手の男です」
「…………」
支配人と吉井さんが、見開いた目と目で語り合った。
チズは驚いて、立ち上がりかけた。腰を浮かせて、四人の顔を見比べる。
「市村君江さんは幽霊になって、これから生まれる曾孫(ひまご)のために化けて出たんですか?」
「ちがうのよ、チズちゃん」
吉井さんが、チズの腕をつかんで椅子に座らせた。
「あのおばあちゃんは、未来を見て来たの」
「はい?」
「ここは、そういうところなんですよ」
支配人が、記事の悲劇の余韻を残した、悲しい微笑みを浮かべていった。
「そういうって、どういう……」
チズが口ごもった。
五十嵐さんは、チズたちのやりとりを辛抱強そうに待っていたが、ちょっといらいらした調子でつづける。
「市村君江の孫娘は、田中久雄とめでたく結婚して長男をもうけた。しかし、そこから先がめでたくない。田中が長男を虐待死(ぎゃくたいし)させてしまった」
「おばあさんは、孫娘の婿(むこ)に曾孫を殺されてしまったわけです」
夏野さんが確認するようにいい、吉井さんはやりきれないように腕組みした。
「ひどいことをする人は、未来にも居るのねえ」
ミライニモ。チズは完全においてけぼりだ。
夏野さんは、事務的に話を進める。
「市村君江は、先月に病死しています。君江は昨日に来る前に、さらに未来にも行っています。孫の幸せな新婚生活を見届け、静かに自分の死を受け入れるつもりが、孫の結婚相手がとんだ虐待男だとわかった。ならば、二人が結婚する前に、男を始末してやろうと考えたんですね」
ミライミライミライ……。頭がグルグルグル……。
「あの、皆さんのおっしゃってる話が、全然見えないんですけど」
「そうですねえ。採用したからには、そこのところを説明せねば」
支配人が分別顔で、口髭をねじる。
「あのね、チズちゃん。ここは時間旅行者が泊まるホテルなのよ」
吉井さんが、チズの目を見ていった。
(つづく)
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。
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