必死の詐欺師 井上ひさし――沢木耕太郎『作家との遭遇 全作家論』試し読み

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 井上さんが文筆家になっていなかったとしたら、果たしてどんな職業についていただろうか。どんな職業が適していただろうか。井上さんにとっては大きなお世話というところだろうが、お世話を承知で勝手に考えれば私の答えはどうしても詐欺師に落ち着いてしまう。井上さんに会う前から、そう思い込んでしまっていた。個人的に金を借り倒されたというのでもなく、写真と文章を通じてでしか知らない人に対して何たる無礼、とは思うのだが、どういうわけか井上さんと詐欺師とがごく近しいものとして、私には印象づけられているのだ。何故だろう。我ながら不思議だが、じっくり考えてみればいくつかの理由が思い浮かばないわけではない。
 たとえばエッセイである。
 井上さんの長編エッセイ『家庭口論』や『ブラウン監獄の四季』などに特徴的なのは、そこに登場する井上ひさし、つまり「私」に独特のしかけが施されていることだろう。極めてフィクショナルな存在として「私」はある。少なくとも等身大ではない。どのような書き手にとっても、自身を等身大に描くのは困難なことであろう。だが、井上さんははじめから等身大に描くことを放棄しているかに見える。それは井上さんが自己を描く時には、自己を描くことそのものが目的ではないからだ。自身の真実などどうでもよい、とひとまず言い得るだけの積極的な断念が井上さんにはあるようなのだ。窮極の目的は別にある。
《パロディを武器とする者は、決して時めいていてはならない。いつも〈卑小なもの〉でいなくてはならない。古人が言ったように、道化役がしばしば他人を笑わせるのは自分をとるに足りない者だ、と思いつづけているからなのである》(「パロディ思案」)
 笑いを生むという確固たる目的のために、井上さんがエッセイの中で行なったことといえば、まず最初に自らを「とるに足りない者」と設定することであった。虚構としての「私」を文中に仕掛けることであった。
 このようなしかけをもったエッセイの、書く者と読む者の関係は、あたかも詐欺師とそのカモの関係を思わせるものがある。笑いを金、あるいは利益一般と置き換えれば、構図はぴたりと重なり合う。
 欺くためにはしかけが必要だ。しかけなしに欺くには、自身が自身に欺かれていなくてはならない。詐欺師におけるしかけも、まず第一に「私」に施される。詐欺師は、金という目的のために、状況に応じて自分を自由に虚構化する。カモの前に提示されるのは常にフィクショナルな「私」にすぎない。
 井上さんのエッセイにおける「私」も、大方の詐欺師の「私」も、どちらも虚構である。どちらの「私」にも真実はない。しかし、虚構の「私」を演じているもうひとつの「私」の中には、ある真実がこもってしまう。「金持ちの孤老」という虚構を見事に生き抜き、数十人から六百万余を詐取した老婆が、実はその金の殆どすべてを「金持ちの孤老」の虚構を維持させるための運転資金にのみ使っていたという詐欺事件があった。自分のためには着物を一枚とショールどめ一つしか買わなかった。「金持ちの孤老」は明らかに虚構だったが、それを必死に演じつづけていた老婆に真実がなかったわけではない。
 井上さんのエッセイには、この「詐欺師の真実」とでも呼ぶべきものと、ごく近いものが存在するように思えてならないのだ。

 たとえば小説である。
 井上さんが創り出した小説の主人公たちには、その行動に独特のひとつの型がある。『モッキンポット師の後始末』でも『手鎖心中』でも『青葉繁れる』でも、主人公たちは彼らの生きている世界に関わろうとする時、冗談・イタズラ・ウソ・ペテン・詐欺、といった系列の行動を主としてとってしまう。とらざるをえない者たちとして生み出されている。
《拙作中の主人公たちはみな例外なく、ドジ、イモ、サバ、三流、間抜け、莫迦もの、という仕儀とはあいなる》(「私のヒーローモッキンポット師」)
 しかし、このような井上さんの主人公たちの詐欺的行為は、多くが失敗する運命にある。にもかかわらず、彼らは小さな悪意とそれに数倍する大いなる善意をもって、世界を必死にとびはねるのだ。必死でありながら失敗することで、彼らの詐欺的行為の中に存在する真実が逆に保証されている。井上ひさしの小説におけるひとつの主題は「必死の詐欺師」の「詐欺師の真実」を描くことにあると言えるのかもしれない。その時、これら必死の詐欺師たちはどこかで井上さんの実像につながっていくのだ。

 たとえば戯曲である。
 多くの戯曲で井上さんが駆使した「分散と集約」という技術は、一流の詐欺師の高等な戦略そのものである。
《ある主題について思いついた事柄を、まず第一幕ですべて投げ出してみる。そして、第二幕では、第一幕で投げ出され、抛り出され、分散された事柄を出来るだけ手早く搔き集めてみせる》(「七十四歳までに五十本」)
 可能なかぎり遠く広くにそれぞれ関係なさそうな真珠をばらまき、それを一瞬のうちに一本の糸でつないでしまう。「分散と集約」こそスティング、騙しの要諦なのである。その方法論を、井上さんはすでに我がものにしているらしいのだ。

 たとえば風貌である。
 およそ作家の中で井上さんほどどのような職業でも似合いそうな風貌の持主は、他にいないのではあるまいか。野坂昭如にも作家以外にふさわしい職業はいくつかありそうだが、区役所の戸籍係にはふさわしくない。五木寛之がストリップの呼び込みをしていても入りにくいし、藤本義一がヤキイモ屋のリヤカーを引いていても声をかけにくい。ところが、井上さんならそのすべてに似合い、しかも、銀行で札を数えていてもいいし、スーパーマーケットで棚卸しをしていてもよい。プラットホームで指差し確認を励行していてもおかしくない。
 井上さんの風貌はすべての風景に馴染んでしまう。特徴的でありながら平凡、平凡にして特徴的。これこそ、詐欺師のようにいくつもの「私」を駆使する者に必須の風貌なのである。

新潮社
2018年12月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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