『エリザベスの友達』
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エリザベスの友達 村田喜代子著
[レビュアー] 井口時男(文芸評論家)
◆消えゆく記憶 夢幻の日々
むかし小林一茶は「ぽつくりと死(しぬ)が上手(じょうず)な仏哉(かな)」と詠んだ。周囲に迷惑をかけず死にたいとは「長寿大国」の多くの高齢者の願いでもあるだろう。だが、誰でもそう「上手」に死ねるわけではない。ことに厄介なのは認知症だ。自分が迷惑をかけていることの自覚もなくなってしまう。認知症とその介護をめぐる現代の哀話は絶えない。
小説の舞台は介護付き有料老人ホーム。認知症の初音(はつね)さんは九十七歳。ひんぱんに見舞いにくる二人の娘も老年。初音さんはもう娘たちのこともわからなくなっている。
認知症の老人たちの意識は記憶の中の過去へ過去へと退行していく。初音さんが帰って行くのは新婚時代、昭和十四年の中国の天津(てんしん)の租界。大きな屋敷に住み、中国人の女中を使い、親しい夫人たちと「サラ」「ヴィヴィアン」などとイングリッシュ・ネームで呼び合った愉(たの)しき日々。満州国皇帝溥儀(ふぎ)の妻・婉容(えんよう)の姿もちらりと横切る。それは彼女が日本では味わえなかったほんの束(つか)の間の「自由」だった。やがて戦争は拡大し、敗戦と引き揚げの悲惨が来る。
入所者の大半は初音さんと同じく、昭和の初めに生まれ、最も過酷な戦中戦後を生き抜いた人たちだ。男たちが出征したあと郵便配達婦になり、毎日二十キロの道を歩きながら子供たちを育てた乙女さん、九十五歳。兄たちが兵隊にとられ、かわいがっていた馬たちも軍馬として徴用されて、「馬」のように働くしかなかった農村婦人の牛枝(うしえ)さん、八十八歳。
乙女さんは夢の中で、妊娠中の身を軍装に固めた巨大な神功(じんぐう)皇后に同一化して大陸へと勇ましく歩き出す。牛枝さんの枕元にはなつかしい馬たちが迎えに来る。
作者は、介護という問題の切実なリアリティーを保ちつつ、彼女らの記憶の世界を、夢のように、幻想のように描き出す。人が死ぬとき、かけがえのない記憶が消えてしまうのだ。若い日々に最もつらい時代を生きた彼女たちへの、彼女たちとともに消えゆく記憶への、鎮魂の思いあふれる小説である。
(新潮社・1944円)
1945年生まれ。作家。著書『鍋の中』『蕨野行(わらびのこう)』『ゆうじょこう』など。
◆もう1冊
村田喜代子著『故郷のわが家』(新潮社)。帰郷した女性の思いを描く連作集。