戦争に勝つために必要な「ふたつの目」とは――塩野七生 読者との対話2

イベントレポート

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中世最大の「事件」というべき十字軍戦争。二百年にもおよぶ、イスラム教とキリスト教の血みどろの闘争史を描いた日本ではじめての通史『十字軍物語』を書いた塩野七生さん。その文庫化を記念し、神楽坂ラカグで2018年12月に行われた読者との対話をここに再現する。(全4回)

塩野七生
塩野七生

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読者D 私はやはり『ユリウス・カエサル ルビコン以前』と『ルビコン以後』が好きです。カエサルはのちのヨーロッパのグランド・デザインを考え、寛容(クレメンツィア)の精神で敵をも同化させ、パクス・ロマーナの実現と繋げた英雄ですね。

読者E 私はハンニバルが好きでした。塩野さんは戦争を書いていると筆が「乗る」ようですが、どうしてでしょう。

塩野 戦争は自分ではできないものですからね(笑)。
 カエサルもハンニバルも戦争に強かった。しかしローマ史にはそうでなかった人物もいます。アウグストゥスがそうです。カエサルはそれを見抜いていたから、アウグストゥスに右腕としてアグリッパを据えた。「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスも同じ。トライアヌスが二年でケリをつけたドナウ河の最前線に、十年もかかずらってしまった。人にはさまざま得手不得手というものがあるものなんです。戦争というのはやはり即断即決ですから。これが戦争巧者の特徴。
 それにもう一つ。日本では「鳥瞰図」という言葉がありますね。鳥が上空から見たような図のことをそう呼びます。鳥なんていうと「ぴよぴよ」という感じですが、イタリアでは「鷹の視点」と言って、こちらの方が雰囲気が出ますね。戦争巧者はこの空から見た視点と、地べたから見た虫の視点「虫瞰」の両方を持っています。カエサルもアレキサンダーもそうでした。
 こういうことはわれわれのようなごく普通の人間にも少しだけ意識して真似ることができるのではないかと私は思っています。足元から判断するのと同時に「鷹の視点」も同時に意識すると、ちがったものが見えてくると思いませんか。

読者F 私はあれだけの権勢を誇ったローマが滅びた理由に興味があって、現代日本人はこの歴史を踏まえ、いかに滅亡を先延ばしにできるか考えたいと思っています。

読者G ローマ帝国はローマ人がローマ人たりうる性質がいつの間にか失われていって、それで瓦解したのだとお書きでしたが、日本はどのようにして滅びると思いますか? 現代の日本を見てみると、自動車や免震装置の品質偽装であったり、詭弁がまかり通る政治や進まない財政再建、モラルハザードを起こして破綻しかかっている健康保険をはじめとする社会保障であったり、国民の勤勉さ、誠実さなど、これまでの日本人らしさが失われているように感じています。

塩野 私たちがいまニュースなどで見て、「困ったことになっちゃったな」と思うことはすべて、「平和の代償」なのです。わが日本は七十年間、戦争をしていません。戦争というものは言うまでもなく悪ですが、ひとつだけ利点があるのです。それは人々の願望が二つのことに集約されることです。一つは自分と家族の安全、そして食――明日食べるものがあるのか――この二つです。しかし長い平和の時代を過ごしてきて、われわれの願望が分散してきたのです。今風にいえば多様化している。簡単にいえば私たちは欲深くなっているのです。勤勉さが失われている理由はそういうことだと思います。
 でも免震装置の偽装で誰か人が死んだでしょうか? 私たちがいま大したことではないことに一喜一憂するのは当然ですよ。明日にも自分や家族の身の安全や食が奪われるような「大したこと」がないのだから。だから私たちはこの七十年の間に、得たものと失ったものをよく認識して、少しずつ微修正していくしかない。私はそう考えています。
 私は古代ローマ帝国とヴェネツィア共和国の通史を書きました。どちらも一千年続いた国ですが、一体なんでそんなに長命だったのか。それはどちらも「高度成長時代」の後にやってくる「安定時代」を続けることに腐心した国だからです。「高度成長時代」というのはどんな国にもやってきます。日本にもありましたし、中国が今そうかもしれない。しかし今のわれわれにとって重要なのは中国を真似することではないんですね。あまり小さなことにこだわらず、複眼的な視野を持つことが大切だと思います。ローマとヴェネツィアを書いた私が感じることは、そういうことです。(3に続く)

新潮社 波
2019年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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