イスラム世界に敗北したヨーロッパがルネサンスを誇った理由――塩野七生 読者との対話4

イベントレポート

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中世最大の「事件」というべき十字軍戦争。二百年にもおよぶ、イスラム教とキリスト教の血みどろの闘争史を描いた日本ではじめての通史『十字軍物語』を書いた塩野七生さん。その文庫化を記念し、神楽坂ラカグで2018年12月に行われた読者との対話をここに再現する。(全4回)

塩野七生
塩野七生

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読者J 私がはじめて読んだのは『十字軍物語』でしたが、ヨーロッパの歴史とそこにある人間ドラマを身近に感じられて、遠く知らない世界を感じられました。

読者K サラディン、リチャード一世、フリードリッヒ二世と魅力的な主人公が次々に登場して、テンプル騎士団が最後まで戦い抜く。でも戦うだけではなくて、キリスト教徒もイスラム教徒も、それぞれの生活のどこかで共生していたということが、現代の状況から考えると切なく感じられました。十字軍遠征が「聖戦」だからこそ物語になりますが、現代の自爆テロはまったく異なるものではないかと感じています。十字軍が終わってから七百年以上が経って、「聖戦」からかけ離れた戦いだけが残っていると感じます。それでもイスラムの若者は命をかけることができても、西欧の若者はそこまではできない……。七百年の間に宗教に対する熱さが変わってしまったのでしょうか? ピュアさが恐ろしくもあり、羨ましくもあると思っているのですが。

塩野 『ローマ亡き後の地中海世界』では、北アフリカのイスラム世界と南ヨーロッパの都市国家のキリスト教世界の間で戦争が起こるわけです。イタリア海軍というのは北アフリカからやってくる海賊に対応するためにできたようなものです。でも一方では彼らはビジネスもしていた。ヨーロッパの側は武具とか繊維とかの手工業製品を輸出していました。北アフリカのイスラム勢力はサハラ砂漠の向こうから運んでくる黄金をヨーロッパ人に売っていた。
 黄金というのは現代の石油と同じではないかと私は思います。どちらも掘れば出てくるものです。それほど多くの人間やノウハウを必要としない。だから雇用も生まない。ところが手工業製品というのは分業になっていますから、さまざまなノウハウを持った人間が関わります。しかし中世にあってもヨーロッパの側は人々に職を与えることに成功していた。同じ時代のイスラム世界はそうではなかったんです。現代のトヨタと中東の油田では、どちらが人々に安定した職を保障するかを考えればそのちがいがおわかりでしょう。
 私は古代ローマを書いていた頃に何度かチュニジアにいって、現地のイタリア大使館に紹介してもらった大学教授と一緒に街を周ったのですが、彼は三人兄弟の真ん中でした。彼を大学に進ませるために、彼の兄は軍隊に入り、弟は官吏になったそうです。つまりどちらも公務員。彼の家庭は決して貧しい家庭ではなかった。ごく普通の市民ですが、そういう家庭の子女が就く職が公務員のほかにない。お隣のリビアもエジプトもまったく同じで、民間の経済が弱い。そうするとどうなるか。若者たちが宗教に向かうのです。だから宗教に熱情をもった若者が存在するんです。
『十字軍物語』を読んでいただければわかりますが、十字軍戦争に勝ったのはイスラムの側です。しかし、負けた側のヨーロッパではルネサンスが起こり、大航海時代を迎えた。どちらも職をもった市民なくして起こり得なかったものです。
 ルネサンスの出発点は、職をもって豊かになった市民たちが、自分たちの生き方に疑問を持ったことです。われわれの生きる指針はキリスト教だけでいいのか、キリスト教以前の世界とはどういうものだったのかという疑問を持ったのです。キリスト教の側は十字軍戦争に負けた後、キリスト教を疑った。そしてヨーロッパの大学では十字軍が終わる前後に、イスラム研究が盛んになります。負けたという事実を冷徹に見つめ、勝った側のことを研究した。ですから十字軍戦争の真の勝者がイスラム側だったとは、簡単には言えないのです。
 職というのはことほどさように重要なのです。補助とか援助をすることは簡単です。しかし、職を作るのは簡単ではない。職さえあれば、社会にひどい格差が生まれることはありませんし、格差が固定することもない。安定成長も職なくしてはありえません。

読者L 『ギリシア人の物語III 新しき力』を書き終えて、長編はもうこれでお仕舞いとおっしゃっていました。これからのことを聞かせて下さい。

塩野 いい男はみんな書いちゃったからなあ……。もしかすると短いものは書くかもしれませんが、これから何をするかははっきり決めていません。2018年は何も書きませんでした。おかげで色々な本を読み、音楽を聞くことができました。いいですね、何もしないというのは。出版社がどう考えているかわかりませんが(笑)。でも、何もしないのにも、ちょっと飽きてきちゃったところです。(全4回、了)

新潮社 波
2019年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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