椿宿の辺りに 梨木香歩(なしきかほ)著
[レビュアー] 師岡カリーマ(文筆家)
◆人と自然 一つに繋がる世界観
その名も山幸彦(やまさちひこ)。古事記に登場する山佐知毘古(やまさちびこ)にちなむ。三十代の若さで「存在の基盤、のようなものが崩れ落ちそうになる」激しい肩の痛みに悩む皮膚科学研究者だ。慢性的な痛みに加え、鬱(うつ)である。同じく原因不明の痛みに悩む従姉妹(いとこ)、海幸比子(うみさちひこ)の勧めで一風かわった鍼灸(しんきゅう)院を訪ねると、治療の鍵は、彼が行ったこともない椿宿の実家で見つかるかもしれぬという。眉唾だが治る可能性があるならなんでもするという思いで彼は祖先の地、椿宿を目指す。
先祖の屋敷が大昔に経験した恐ろしい事件。噴火などで崩れた大地のバランス。これらが遠くに暮らす子孫の体に異変をもたらすとしたら。悲痛な体験が細胞に染み込み、痛みとなって次世代に遺伝するとしたら。逆に自然環境の乱れを正すことが、人体にも治癒をもたらすとしたら。本書に刺激されて、そんな(一見非科学的だが不可能とはけして言い切れない)ことを考えると、羊水に浮かんでいるような、言うならば在るべき場所に帰ったような、心地よさを覚えるのはなぜだろう。
日本古来の自然崇拝や祖霊信仰とはかけ離れた一神教の地・中東で育った私には、このように人と自然とを根源的なひとつの繋(つな)がりとしてみる発想は、今までなかった。むしろ異文化だったと言っていい。ところが、椿宿の辺りに足を踏み入れたとたん、日本古来の自然観や人間観のようなものが、柔らかな説得力を持って、すんなりと入ってくるのは、一体どういうことだろう。
深遠な主題や、伝染しそうに強烈な痛みの描写とは裏腹に、しばしばクスッとくる軽妙な語り口。表紙をめくったが最後、一気に読んでしまう面白さ。古事記、稲荷、治水などの言葉に最初は身構えてしまう読者でも、すぐに親しみが湧いてくるだろう。動植物に造詣が深く、日本の風土を知り、かつ世界の諸宗教を深く見つめてきた梨木氏ならではの傑作だ。『f植物園の巣穴』の続編ということだが、それを読んでいない私も最後まで気付かなかったほど、単独でも楽しめる。
(朝日新聞出版・1620円)
1959年生まれ。作家。著書『西の魔女が死んだ』『家守綺譚(いえもりきたん)』『海うそ』など。
◆もう一冊
梨木香歩著『f植物園の巣穴』(朝日文庫)