立ちどまらないことの値打ち――古川日出男『グスコーブドリの太陽系 宮沢賢治リサイタル&リミックス』

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立ちどまらないことの値打ち ――古川日出男『グスコーブドリの太陽系 宮沢賢治リサイタル&リミックス』

[レビュアー] 柴田元幸(翻訳家・東京大学名誉教授)

 依頼されたのはこの本の書評だが、以下に書くのは主に、この本を構成する一連の文章の成立に立ち会った者から見たその経緯と、それに関する個人的感慨である。本のよさ、すごさを伝えるのが書評の仕事だとすれば、僕にとって一番いいやり方はそれらを書くことだと思うからだ。

 雑誌『MONKEY』を二〇一三年秋に始めたとき、古川日出男さんに連載してもらうことは絶対の前提だった。そして、古川さんが二〇一一年十二月に管啓次郎・小島ケイタニーラブと『朗読劇 銀河鉄道の夜』を始動させ、翌年春からは僕も仲間に入れてもらったという流れからして、『MONKEY』で毎回宮沢賢治作品のリミックスを依頼する、というのはほとんど必然の展開だった。村上春樹短篇のカバー『中国行きのスロウ・ボートRMX』(のち『二〇〇二年のスロウ・ボート』と改題)、古川版源氏物語『女たち三百人の裏切りの書』、平家物語翻訳の創造的副産物『平家物語 犬王の巻』など、古川日出男ほど「再話」という方法の可能性を拡げた書き手はほかにいない。

 かくして『MONKEY』連載は、「なめとこ山の熊」に始まり「戯曲『饑餓陣営』」、「詩篇『春と修羅』」……と、毎回「ううむ、こう来たか」と唸らされる原稿が届き、編集者冥利に尽きるという決まり文句が文字どおり真実である瞬間がくり返し訪れた。内容よりも枠組みを替えることでしなやかに独自性を打ち出し、ユーモアに富み、「讃歌」と「批評」が同義になっている悦ばしさ。「狂言鑑賞記『セロ弾きのゴーシュ』」などは勝手に自分の朗読レパートリーに加えさせてもらい、何度か二人の音楽家(小島ケイタニーラブ+伊藤豊)と一緒に楽しく演じてきた。

 だが古川日出男は、このように毎回「楽しい/巧みな/考えさせられる」再話を産出しつづけることに満足しなかった。考えてみれば、ほぼ毎回脚本が書き直され演出し直される『朗読劇 銀河鉄道の夜』関係者として断言するが、そもそも古川日出男ほど、立ちどまること、自分をなぞることを嫌う人もいない。二〇一六年夏、第十回連載原稿の〆切前に古川さんは、ここからは何回かひとつの作品を論じることにしたいが構わないか、と訊いてきた。

 僕は連載作品が毎回読み切りであることを望む。その号だけを買う読者を考えてのことである。書き手の方々にも、一回一回完結する内容となるようお願いしていて、むろん古川さんにもそう伝えてある。そして古川さんほど(何だか同じ構文が頻出するが)律儀な人を僕は知らない。その律儀な古川さんがそう訊いてきたのだ、これは熟慮の末の問いにちがいないと判断して迷わずOKした。

 そうして届いた原稿が、「私はグスコーブドリの伝記が嫌いだ。何かが間違っている。私は、この物語をはっきりと書き直したい」で始まる「グスコーブドリの伝記 魔の一千枚(序)」だった。竹刀が真剣に持ち替えられたような凄味。以後、「グスコーブドリの伝記 魔の一千枚」の「再話論」「兄妹論」「飢餓論」……と九つの「論」が書かれ、これらが今回出た本の後半を構成することになる。

 古川日出男のブドリ伝批判の主な論点は二つ。一つは、天災を人為的に制御するために、今日で言う「地球温暖化」が解決策となっていること(この批判が「現代的であるに過ぎない」ことはむろん認識されている)。もう一つは、くり返し「永久の未完成これ完成である」(「農民芸術概論綱要」)というまさに「立ちどまらないことの値打ち」を打ち出した宮沢賢治が、この作品では「完成」を遂げてしまっていること、答えを出してしまっていること。

 が、急いでつけ加えないといけないが、これらの「論」は、一作だけ賢治の駄作を見つけて、鬼の首でも取ったようにその欠陥を指摘して済ませているのでは毛頭ない。論の矛先は、やがて自分に向けられる。著者は作中に「古川日出男」を導入し、その妹「古川練」(「ネリ」はブドリの妹の名だ)を登場させる。彼らを介して著者は、グスコーブドリの伝記のテーマ〈自己犠牲〉の向こうまで行き、全世界の人びとを救うために自分は自分の愛する者を犠牲として差し出せるか、と、宮沢賢治が抱えた以上に過酷な問いを自らに突きつける。そのむき出しの問いの、照れも衒もない切迫感。そこからブドリ再話がいかなる完成ならざる完成に行きつくか、ぜひお読みいただければと思う。

新潮社 波
2019年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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