『緋(ひ)の河』 桜木紫乃(しの)著
[レビュアー] 能町みね子(文筆業)
◆「この世にないもの」に
北海道・釧路出身のカルーセル麻紀さんをモデルとして彼女の半生を描いた、あくまでもフィクションの小説。物語に男性から女性への性別移行者が登場する場合、読者は往々にして彼女にステレオタイプの物語を設定してしまいがちである。最近は性同一性障害という言葉も知られているので、単に道化的な存在とは思われない代わりに、周りに全く理解されずに偏見やいじめの的となり、つらい子供時代を乗り越えて「本来の性別に戻る」という捉えられ方が増えているように感じる。
この作品の舞台となる昭和二、三十年代であれば今以上に彼女らは蔑視されていたはずで、少年期の描写ともなれば酷なものも予想された。しかし、苦労譚(たん)を予期して読むと、やや拍子抜けさせられる。もちろん無理解な登場人物もいるが、味方となる魅力的な人物が多いおかげで、主人公・マコ(秀男)の不遇さは強調されない。マコは内面に卑屈さや暗さも秘めているが、それを大幅に補うほど自信家で居丈高で行動力があり、天使のように軽やかで、彼女の未来には常に明るい景色が見えている。
私自身、男性から女性に性転換した経歴を持つため、どうしても自分とどこか共通点を追ってしまうが、何度も登場する「この世にないものになる」という言葉はまさに私のこれまでの人生のよすがでもあった。これは単に性別として男でも女でもない者、という意味ではないだろう。マコには、憧れる人はあっても、手本となる人がいたわけではなかった。だから誰かの真似(まね)をするのではなく、自己を確立し「この世にないもの」となったのである。
自分が生きるにあたって、私は「性転換者でありながら、カルーセル麻紀さんのような先人とは違う何か」を目指していた。これも「この世にないもの」になろうと思っていたことにほかならない。
マコのように「この世にないもの」を目指すことは、誰にとっても、湧きつづける不安を埋め、自信を強化し、輝く道を見つけるための指針となるはずだ。
(新潮社・2160円)
1965年、北海道釧路市生まれ。作家。著書『ラブレス』『起終点駅(ターミナル)』など。
◆もう1冊
桜木紫乃著『ホテルローヤル』(集英社文庫)。直木賞受賞作。