「孤独はわたしそのもの。孤独に動かされてわたしは書いてきた」ピュリツァー賞作家ジュンパ・ラヒリが語る

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わたしのいるところ

『わたしのいるところ』

著者
ジュンパ・ラヒリ [著]/中嶋 浩郎 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901592
発売日
2019/08/23
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

孤独が背中を押してくれる。

[文] 新潮社


ジュンパ・ラヒリ(写真:Opale/AFLO)

2012年、家族とともにニューヨークからローマへと移住したラヒリ。イタリア語による初エッセイ『べつの言葉で』を経て、待望のイタリア語による長篇小説『わたしのいるところ』を昨年発表。訳者による解説を交えた新刊インタビューです。

聞き手:カロリーナ・ジェルミーニ
翻訳・注解:中嶋浩郎

 ***

イタリア語による初の長篇小説『わたしのいるところ』の主人公は、ローマと思しき街にひとり暮らす45歳の独身女性。研究者の彼女は大学で教え、子ども時代から同じ地区に住んでいる。なじみの店や場所に身を置いていても、彼女はいつも孤独だ。孤独であることが、仕事ででもあるかのように。

 名前を取り去る

――『わたしのいるところ』では場所にも人物にも名前がありませんね。

 少し前から、イタリア語で書くときにはすべてをより抽象的、より開かれたものにするために、特殊性をできるだけ排除しようとしてきました。わたしが執筆を始めたころは、あらゆるものごとがアイデンティティーを中心に回っていました。ある名前をもつことをめぐって一冊の本を書いたこともあります[訳者:長篇小説『その名にちなんで』のこと。「ゴーゴリ」と名づけられたインド系アメリカ人の少年とその家族の物語]。名前は一つのレッテルで、何かを説明するけれど、生まれや母語と同じように、自分で選ぶことができません。でも、一人の人間の本質は、押しつけられたものとは別のものですから、そこに衝突が生まれます。この衝突に興味があるんです。

 いまわたしは、すべてをより抽象的なものにしようとする段階にいます。わたしにとって名前を取り去ることは、ある種の重荷からの解放なのです。『わたしのいるところ』では、ローマのようでローマでなくてもかまわない、ある町の名前を取り去っています。名前がなければ、境界ももはや成り立ちません。何かを取り除くことで、いろいろなものの意味が広がる。わたしはこの穴だらけの開かれた状態が気に入っています。

――主人公は自分をさらけ出したい欲求と自制する必要とのあいだでつねに揺れ動いています。外からの刺激を求めながら、そこから逃れなくてはといつも感じていますね。

 ええ、それはこの本に出てくる数多くの矛盾の一つです。あらゆる意味で揺れ動いている作品なんです。ここで描かれる町にも二つの顔があって、生き生きしていながら死んでもいる。主人公は、外にでかけてはまた帰宅します。それが彼女の日常ですが、たぶんこれは誰にでも当てはまるでしょう。

 わたしたちは自分の内と外の両方に空間をもっています。二つの空間の境界を突き止めたい。彼女はいつも境にいます。外に引きつけられ、それからまた内側に引っ込むのです。

 揺れ動く主人公

――小説は道端の碑板という死のイメージで始まります。あなたはしばしば碑板、服喪、墓などの言葉を使いますね。この作品では場所が重要な役割を果たしていますが、死ももう一つの場所なのでしょうか?

『わたしのいるところ』には、神話的な鍵があると思います。彼女はペルセポネ[訳者:ギリシア神話の最高神ゼウスと穀物豊穣の女神デメテルの娘。冥界の神ハデスに見初められ、冥界に連れ去られて妃となる。デメテルが娘を探して放浪しているあいだ、大地は荒廃してしまったため、ゼウスの取りなしによってペルセポネは一年の三分の一を冥界で過ごし、残りは地上に戻って母と暮らすことになった] のような存在で、死と生のあいだを行き来しなければなりません。主人公と母との関係からも、この仮定は確かなように思えます[訳者:主人公が小さいころ、ひどく孤独を恐れる母は娘を片時も離そうとしなかった。主人公は「わたしたちは変質したアマルガムのよう」だったと回想する。いまは二人とも一人暮らしで、主人公は定期的に年老いた母に会いにいっている。母が「心の底ではあのアマルガムをつくり直して孤独を追い払いたいと思っている」ことを知りながら、この暮らしをやめるつもりはない]。

 彼女は死や亡霊ととても深い関係をもっています。この本に神話的な表現がよく出てくるのは、わたしがローマを知り、この町の精神を吸収した結果かもしれません。子どものころから、物語や歴史の読みものを通して、ローマに古典的なイメージをもっていました。主人公の女性は場所とつながり、死や、もう存在しないものともつながっています。そして光のほうへも向かうのです[訳者:主人公の仕事場を前に使っていたのは詩人で、その研究室の静けさを愛し、泊まり込んで詩を作ることもしばしばだった。亡くなったのはその部屋でではなかったが、主人公は彼の何かが部屋に残っていると感じている。またべつの章では、神話の世界の生き物たちの彫刻に囲まれた庭を散歩する老齢の男女が描かれる。女性のほうは難しい手術を終えたばかりらしい。手術のあいだはべつの世界にいて、ふたたびこの世界に戻ってきたのだろうと主人公は思う]。

――彼女を外の世界と隔てる境は生と死を分けている境と同じということですか?

 もちろんその通りです。これが境です。この本には、存在することとしないことの絶え間ない緊張があります。自分が世界に存在していると感じるのは、彼女にとって一つの挑戦です。

――彼女は結びつきや従属関係を望まず、自分の家族にも属していないと感じています。彼女を不安にさせるのは、この根無し草の状況なのでしょうか?

 そうとも言え、違うとも言えます。彼女は住んでいる地区、自分の日常生活に強く結びついていますが、そこに属することと離れることとのあいだでいつも揺れ動いています。英語で小説を書くようになってから、ずっと考えつづけているこのテーマを発展させ、掘り下げてみようと思いました。彼女は根を張ることの難しさに苦しんでいると同時に、自分の家を離れることに不安を感じてもいます。とどまりたい欲求とあらゆる境界を越えたい欲求に突き動かされているんです[訳者:主人公は変化を恐れている。「わたしに足りなかったのは前に踏み出す力だ」と感じ、自分の場所を離れるための一歩がなかなか踏み出せずにいるが、最後にある決心をする。「どこでもなく」の章にはその心境が記されている。「じっとしているどころか、わたしはいつもただ動いている」「通りすぎるだけでない場所などあるだろうか?」]。

――主人公の女性は、「八月に」の章で隣家の男が売り出すさまざまな中古品を買いますが、その次の章では、無駄なものを買うと不安な気持ちになると言っています。

 こうした品物の交換にわたしはいつも心を打たれます。わたし自身も、ポルタ・ポルテーゼ[訳者:テーヴェレ川右岸地区にあるポルテーゼ門を起点とした道路で毎週日曜日の午前中に開かれるローマ最大の蚤の市]でいろいろなものを探すのが好きですし。無言のままあちこち移動してゆく品物のことを思うのも好きです。茶碗は自己表現ができませんが、このような交換によって、所属するということの意味がもっと広がるように思います。

 これは彼女にとって、自分の孤独な生活に他人を迎え入れる手段なんです。そこにはつねに死との関係が存在します。もうこの世にいない女性の毛皮のコート、それを着ることは自分の存在確認であり、「今日、わたしは生きている」と言うための一つの手段なのです。

“Dove mi trovo”, il primo romanzo in italiano di Jhumpa Lahiri by Carolina Germini / La Repubblica, 15 January 2019. Copyright (c) Carolina Germini

新潮社 波
2019年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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