『照柿 上』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
極寒のシベリアから東京舞台“熱中症小説”
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
【前回の文庫双六】常識は用をなさないシベリアの酷寒――北上次郎
https://www.bookbang.jp/review/article/587440
***
極寒のシベリアから、灼熱の日本へ飛ぶこととしよう。ようやく酷暑の夏が終わったばかりではあるが。
高村薫がデビューしてのち、立て続けに力作を放った頃の印象は鮮やかに記憶に残っている。とりわけ『マークスの山』に始まる、合田雄一郎刑事ものにはしびれた。
当時、これはミステリか、文学かなどと論争が巻き起こったのは、いわゆる推理小説としては例外的に濃密な文体ゆえだった。とりわけ『照柿』は、うだるような猛暑の描写が全巻を支配。その息苦しさが不思議なことに強烈な快感となる。
一方の主人公・野田達夫は、東京多摩の羽村にある工場で熱処理工程の工程長代理を務める。作業所には大型炉が並んでいて、達夫はつねに高熱に炙られどおしだ。おまけに自動制御の炉が故障を起こし、不良品が出始めている。
不測の事態に対処すべき立場の達夫だが、冒頭から睡眠不足に悩まされている。下巻では「最終的に六十八時間に及ぶことになる本格的な不眠」に突入していくのだから恐ろしい。
合田刑事はといえば、炎天下、拝島駅の人身事故現場で遭遇した女に唐突に恋情を燃やす。こちらも何やら様子がおかしい。達夫は彼の幼なじみ。やがて女は達夫の愛人と判明する。女をはさんで男二人の狂おしい発熱状態がぎりぎりまでヒートアップしていく。
「人生の道半ばにして/正道を踏み外したわたくしは」云々というダンテ『神曲』の冒頭が題辞に掲げられている。異様な暑さのただなかで狂おしく展開される物語のありさまは、ドストエフスキー『罪と罰』を意識してもいるだろう。
世界文学の古典と対峙する姿勢が頼もしいが、これは温暖化する日本をとらえた小説でもある。途中、大阪では気温三十五度。「ここ十数年でっしゃろ、この暑さは」とタクシー運転手は述懐する。熱中症の語はまだ使われていないが、しかしこれは「熱中症小説」の大いなる達成ではないだろうか。