「社会学はどこまで行くのか?」『社会学入門・中級編』刊行記念 稲葉振一郎×岸政彦トークイベント

対談・鼎談

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

「社会学はどこまで行くのか?」『社会学入門・中級編』刊行記念 稲葉振一郎×岸政彦トークイベント

[文] 有斐閣

稲葉振一郎『社会学入門・中級編』刊行記念として、2019年6月9日に代官山蔦谷書店にて行われた、稲葉振一郎(明治学院大学社会学部教授)・岸政彦(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)トークイベントの内容をご紹介します。

 ***

岸 去年の暮れに『社会学はどこからきてどこへいくのか』(有斐閣・2018年)のイベントを4人で大阪でやりましたけど、2人でやるのは初めてですね。僕は20年から25年ぐらい社会学の世界にいるんですが、いちばん影響を受けたのが実は、稲葉振一郎なんです。この人は、桁外れの量の本を読んでいるのに、その読む視点というか、それをまとめるときの視点がものすごく素直なんです。
 僕がやっていることの灯台というか、道しるべなんですよ。あんまり褒めると悔しいですが(笑)。特に僕は沖縄とか大阪の路地裏で、地べたっていうと相手に失礼ですけど、ごく普通の方を調査してキャリアを積んできて、いまでこそ方法論とかでも実在論みたいなことを言ってますけど、そのためにいちばん背中を押してくれたのが、この人やったんです。で、今日はだから、この人の、なかなか読みづらいこの本をですね(笑)、なんとかしてみなさんにこの良さをわかってもらおう、と思っています。

「厨先生」と「中級編」

稲葉 2009年にNHKブックスから『社会学入門』を出しましたが、それからちょうど10年経ちました。今回はその続編という位置づけがあるのと、あともう1つ結局これは何かというと、筒井淳也・前田泰樹の『社会学入門――社会とのかかわり方』(有斐閣ストゥディア・2017年)ですね。この2つの「入門」の続編であると。次の「上級編」は北田暁大先生が書く教科書をあてて、その中継ぎという意味で、これを「中級編」と。

岸 なんで人の本を勝手に「上級編」にしてんだ(笑)。勝手に人の本を自分のシリーズみたいにして。

稲葉 もう1つお伝えしておくと「厨先生」って私のあだ名になりましたけど、あれ、発案者は私自身なんです。最初は冗談でしたけど。

岸 あ、そう。自分で考えたの?

稲葉 なんでかっていうと「大先生」と言われるのを回避するための方便で。完璧に成功したわけですけど。まあ「大先生か!」と言われる危険があの頃ありましたので。それを避けるというのはあります。

岸 「大先生」という言い方があって、ネットの社会学クラスタの中では、なんか大ボラ吹きみたいなね。キャラがあるんですよ。

稲葉 もう終わってしまったけれどもね。

岸 僕こういうところでたまにする話があって。生まれてはじめてトークイベントをするときにこの人に来てもらって、あれは『街の人生』(勁草書房・2014年)やったんですよね。あれもどういう売り方をしていいのかわからない本だったんですけど。
 そのときは僕もまだ本当に無名で、そんなに知り合いがいるわけでもなくて、社会学者でいちばん尊敬している人ということで呼んだんですよね。そのときにね、この人遅刻したんですよ(笑)。待ち合わせの喫茶店に、僕と連れあいと編集の方がいて、めちゃくちゃ遅刻して、この人が。だいぶあとから、特に急ぐでもなく、ふらっと来たんですよ。普通に歩いてね。ほんで座った瞬間にね、あなた覚えてないと思うけど、「これって何かが実在するってことだよね」って言ったんですね。
 『街の人生』ですよ。マイノリティの方々のインタビュー集です。それで「これってなんか実在するものがあるっていう話だよね」とポツンと、座った瞬間に言ったわけ。僕の連れあいがそのとき、なんだか知らないけど、感動して泣きそうになったんだって。なんかよくわからない話ですけど。
 で、そんときに、あ、そうなんだ、ストーリーじゃなくて事実なんだこれは、僕はそれが言いたくてあの本を書いたんだ、生活史は「実在」するんだって、たしかにそうだっていうふうに思ったんですよね。こういう感じで、厨先生は要所要所ですごく良いこと言うんですよね。

何を書いたら研究になる?

稲葉 『社会学入門』は「入門」と銘打ちましたけれども、あれは学生の教育用というよりは、一般読者向けに「社会学ってこういうもんです」と知ってもらう、観光案内みたいなものとして出したんですね。それは、社会学を「する」ための教科書では必ずしもなかったかもしれない。ただ、教育を受ける側の学生さんにはそういうニーズもあるんですね。「やること」や「すること」って、「見ること」や「知ること」とは違うから、「中級編」ではもうちょっとストレートに教育的に、「社会学をする」ということに関して、その「やり方」に重点を置いた本として考えました。

岸 やっぱり「何を書いたら社会学の論文になるのか」っていうのは、ものすごく根本的な問いとしてあったはずなんだけど、それにちゃんと答える本がなかなかなかったんですね。そこに筒井・前田『社会学入門』が出た。この本もまだまだ答えきってないと思うけど、いちおう入り口として、全体としてこっちの方向に行くべきだ、っていうところは示している。すごくいい本です。人びとの声を聞くというのが、この教科書は一貫しているんですよ。こっち(調査をする側)が勝手に決めるな、っていう本なんですね。
 たとえば病気とか、病気になった人について調べてみよう、というとき。病気とは何か、なんかウイルスが入ってなんか炎症を起こして……っていうことをこっちが決めたり、あるいは「病気とは何か」っていうことを考えるんじゃなくて、社会学者っていうのは「人びとが病気というものをどう理解しているのか」を聞きに行きなさいっていうことを言っているんですよ。

稲葉 前田さんと筒井さんの新しいところ、良いところは「狭い」ところなんですね。先進国によくありそうなライフコースを取り上げながら、計量的アプローチで攻めるとこうなるし、いわゆる質的事例研究で攻めるとこうなりますよ、という風に社会学的分析の具体例を見せていく。この解釈が正解かどうかわかりませんけど、私としては、ようするに社会学的な計量分析は、それだけを取ってみると経済学とか心理学とか、あるいは公衆衛生学とかでやってることとさほど変わらなくて。調べなければいけない項目を立てて、それをきちんと調べる、という作業としては、他の科学と根本的に違うことをしているわけではない。ただし社会学では大量観察に基づく計量的研究は、質的事例研究と分業関係にある。では質的事例研究が何をしているかというと、いわば量的研究において選び出される項目を準備するような仕事をしている。社会学の特徴、他の社会科学と比較したとき、一番決定的な違いは、その調査対象項目っていうものを研究者が勝手につくるんではなくて、調査対象者である普通の人びと、つまり社会の当事者がつくる、というところ。社会というのは自己観察するもので、当事者が自分たちの社会は何かっていうことに常に自分たちなりに理解を編み出しながら社会を作っているので、それを拾い出して、リファインして、調査項目に仕立てていく。

岸 ちょっといい? 厨先生の『中級編』で、僕が感じる最大の問題はそこなんですね。読んで一番ムカついたところで、うちの連れあいも「稲葉さんわかってへんわ」とか言ってたんやけど(笑)。この本は、僕らがやっているケーススタディっていうのを、そういう意図はないとは思うんだけど、計量の人らのアンケート項目を作るための準備作業なんだって言っているような書き方をしているところがあるのね。それはね、ちょっとこれは文句を言わしてもらう。

稲葉 うん。

岸 僕らはそんなことのためにやっているんじゃないのね。これは『どこどこ』で筒井さんとも話したし、それをやっていただいたらすごく嬉しいし、もちろん協働していきたいんだけど。でも僕らは、あくまでもフィールドワークでたまたま出会った人にしか聞けないんだけど、質的な調査のなかでやっているってことは、ものすごく総合的というか、そこで起こっていることをすべてを聞きたい、記録したいと思ってやっているのであって、だれかのアンケート項目を作るお手伝いをしてるんじゃない。
 でもね、そのうえで違うことも思っていて。『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』(勁草書房・2018年)っていう本のなかでも書いたけど、僕も実際にある被差別部落でアンケート調査を大規模でやったことがあって。そこで、たこ焼き屋の屋台を引いてるおっちゃんがおったんですね。おっちゃんに、あなたは正社員ですか、契約派遣ですか、アルバイト・パートですか、日雇いですか、無職ですか、みたいな感じで聞いたら、「わしは正社員や」って答えたんです。学生がアンケート持って帰ってきて、職業の自由記述欄には「たこ焼き屋の屋台」って書いてあるわけ。でも雇用形態のとこが「正社員」になってる。
 そのおっちゃんにしてみたら、正社員っていうのはそれは、「わしは毎日一生懸命真面目に働いてるんやで」っていうぐらいの意味だったんですよ。正社員か派遣かパートかっていうのはさ、そのおっちゃんの感覚からすると、「正社員」なんです。で、どうしたかっていうと、屋台を引いているからってことで、たしか「自営業」にしたんですけど。書き換えちゃったんですね。こういう作業って、ものすごい質的な作業なんですよ。だから、そういうところで、『中級編』が主張してるところにもすごく正しいところがある。
 だから量的なものでも、調査というものをやるときには、ものすごく質的な感覚、質的な解釈が必要なんですよね。だからやっぱりさっき言ったように、社会学者っていうのは、人びとが何を思っているのかを聞きに行くというのが仕事なんだと思うんです。
 矢澤修次郎先生っていう理論社会学の方がいて、すごく尊敬しているんですが、その人がね、いっかい研究会のあとに飲んだときに、「岸さん、社会学はリカバリーでいいんだよ」って言ったの。それすごく感動した。泣くほど感動して。発見しなくていいんだって。社会学は新しいことを発見しなくていい。人びとが考えていることを、そのまま書いて残したらいいんだよって言われて。ものすごく偉い理論の人から、僕がやっている生活史みたいな、聞いて書くだけみたいなことの、背中を押された感じがした。理論の人には、やっぱりそれをやってほしいですね。現場で調査している人の背中を押すようなことを書いてほしいなとほんと思います。

「他者の合理性」

岸 『中級編』は「人びとの話を聞きましょう」っていうところから入るんだけど、そのあと2本の柱が現れる。この本がほかの本と違うのは、この2本なんですね。因果推論の話と合理性の話。そしたら、ちょっと合理性の話から入っていいですか。なんで合理性の話をしようかというと、まあ僕の本の紹介から議論に入っているんで、それをちょっと言いたいなってことなんですけど(笑)。
『中級編』は、途中から僕らの『質的社会調査の方法――他者の合理性の理解社会学』(有斐閣・2016年)の話に入るんですよね。社会学の学生は、とりあえず調査に行く人が多いわけ。学部生でも、院生でもね。でも、何をすべきかってのがわかんない。そういうときのために、あの教科書は僕なりにリサーチストラテジーを質的な方から書いたんですね。
 それで自分なりにリサーチストラテジーの解説を質的な方向からやるとして、じゃあ僕らはいったい何をしているんだろう、と。いま僕は、若手が書いた博士論文とか単著とか、学術雑誌に載ってる質的調査の論文を、日本語で読める範囲だけど、20年分ぐらいばーっと集めて読んでます。それを自分なりにまとめているんですが、ものすごく切り詰めて切り詰めて簡単に言うと、「一見して不合理なことをやっているように見える人らについて、実は合理的なんだよっていうことを書く」ということを、僕ら質的調査屋はやってるんじゃないかと。多くの人って、一見して非合理的、不合理的に見えるわけ、外から見てたら。でも、「中」に入ってその人の話を聞くと、これがわかってくる。こうこうこういう事情でこういう背景で、こういう生活史があって、だからそういう選択をしたんだな、ということがわかる。それを書く、ということをしてるんじゃないかと。
 だから、非合理的な行為を合理的な行為に翻訳するのが僕らの仕事かもしれない、と。たとえばホームレスやってて、生活保護をもらってアパートに入ったのに、また公園に戻ってきちゃった人がいると。そうするとそれは自己責任になっちゃうし、なんでそういうことをしているかわからない。単なる愚かな人になっちゃう。でも、それは愚かなんじゃなくて、ちゃんと話を聞くと「それはアパートには住めんな。生活保護をもらうのは辛いよね。公園の方がまだマシだよね」ってことになる。そうするとどうなるかというと、その人は合理的な人になるんですね。合理的な主体になるわけ。その人なりに合理性を持っていることになる。まあ、例外も、絶対理解できない他者もいるんだろうけど、ほとんどの人らっていうのは理解できるはずだ、と。ようするに人びとには合理性というものが、最大公約数的に備わっているはずなんだ、っていうことを教科書に書いた。その議論を受けて『中級編』を書いてくれたんですよね。

稲葉 その合理性っていうのが、どういう水準のものなのかって言ったときに、そういう当事者の合理性って、実はそれ自体である種の理論なんですよ。そして調査のガイドになる。それ自体が作業仮説、調査して集めたデータを解釈するための、枠組みになるんです。では、どうしてそういう当事者の合理性という枠が使えるのか、あるいは使うべきなのか、ということが次の問題になります。
 当事者の合理性という仮説を、第一歩、フックとして使うことがなぜ必要かっていえば、本書の主張は、単に必要というよりある意味他にやりようがない、不可避だっていうことなんですけど、何でそう言っていいのか。これはもちろん必ずしも自明ではないわけです。でも現状だと、古典的な意味での社会学的理論にはね、その意義が自明なものがほぼなくなってしまっているわけで。
 たとえば一昔前のマクロ社会学的な議論では、それこそ「19世紀から20世紀にかけて近代化の屈折が起こりました」とかいう図式化が許された時代があったけど、今だと許されない。ミクロ的な水準で議論をするときにも「そういうマクロ的な社会状況があって、それに規定されて、人びとのメンタリティがこういう風に展開していますよ」とかでは難しい。
 現代的なメンタリティを説明するときに「生活史上の証言だとか、あるいは文学作品上の表現の変容なんかは、そういう社会のマクロ的変化を反映してますよ」っていう程度の議論で、一昔前ならよかったかもしれないけど、今はそれだけでは許されない。自分で拾ってきた事実を、もうちょっと厳密なかたちで解釈しないといけない。

岸 たとえばフィールドワーカーが、非合理的なことをしている感じの人について、現場に入ればものすごく彼らなりの事情や理由がわかる、と。そういうことを書くとして、必ずしもそれを理論の人らがバックアップしてくれることは全然ないのね。そういう、「具体的な記述」のために使える「理論」っていうものが、ほんとに全然ない。

稲葉 なんでそうなったか、っていうことが本当はまだわかってなくて、そこは将来の社会学史の大きな課題になると思います。さっき言ったような、近代社会のマクロレベルでの変容を語るためのグランドセオリーを作ろうとした人たちがいて、やっぱりその中でもある時期まで非常に大きな影響力をもったのはタルコット・パーソンズですね。パーソンズにはすごく複雑で大規模な理論図式があったけれども、現実問題としてパーソンズから後世の人びとへ何が受け継がれたかというと、結局「社会を作る、コミュニティを作るってことは、なんか人びとが共有する信念体系があって、その信念体系の共有を通じて人びとが繋がります、その信念体系の共有が社会を社会たらしめます」くらいのイメージ。それ以上のもっと複雑微妙なこともパーソンズは言おうとしたけど、理解可能な議論として人びとがパーソンズから受け止められた、のは結局その程度のもの。

岸 合理性の方にもう少し話を進めますけど、その合理性に関する社会学的な行為の理論っていうのがほとんどなくて、それが行動経済学の方に持っていかれちゃったと思うんです。マックス・ウェーバーは目的合理性とか価値合理性とか言ってたはずなのに、社会学者はなんかそれをベタに受け継ぐってことをほとんどしてこなかったじゃないですか。

稲葉 20世紀の後半を見たときに、そりゃパーソンズも頑張ったけれども、行為の分析、役に立つ道具を作ってきたのは結局ほとんど哲学者だったのではないか。

岸 そう、分析哲学の行為論ですよね。それとむしろ行動経済学とか行動科学の方ですよね。

稲葉 もちろん社会学の方でも、行為の地道な分析も全然ないわけじゃなくて、アーヴィング・ゴフマンの系譜をひいた人たちがいる。さらにエスノメソドロジーでは、社会学とか言語学とか心理学なんかが相互乗り入れをして、まずは行為を厳密に記述する、というレベルでかなりの蓄積を達成し、理論的にも、その記述の中から「秩序」というものについての、従来の社会学や哲学とは非常に異なった、面白い考え方を作りつつあるんだと思うんですけど。

岸 でも、厳密に経験的な方に行きすぎちゃって僕らには使えないんですよね。僕がエスノメソドロジーに違和感があるのはそういうことなんです。別に否定しないし、それはそれで研究したら良い。会話の秩序とか、相互行為の理解とか、コミュニケーションの様式の研究だって、もちろんやったらいいんですよ。でも、それが使えない種類の研究もやっぱりある。たとえば、僕は打越正行の仕事がいちばん美しいと思うんですよね。あるいは僕自身が今やってる調査、たとえば沖縄戦の調査をやっていて、学生が聞いたものも含めていま50人分の沖縄戦の聞き取りをしているんです。あの人たちにとって沖縄戦がどう経験されたか、沖縄戦とはいったい何だったのか、っていうのを聞きに行くわけですよ。それを持って帰ってきて何が書けるかっていうと、「人びとは沖縄戦をこう語りました」という書き方はできないんですよ。わかりますかね。特定のフィールドに深く入り込むと、書けることが狭まってくるんですね。沖縄戦とは何かっていうことを、僕がベタに書くっていうことが求められるんですよ。
 当然ですよね。沖縄戦の話を聞きに行って、だから沖縄戦ってこうですよっていうことを書くのが、普通の大学の先生に求められる役割やし。そこで沖縄戦とはこうだったんですよってことを言わずに、沖縄戦という概念がどう語られましたか、とか、相互行為のなかで沖縄戦という概念がどう構築されましたとかっていうことを書くのは、それは純粋に理論的な仕事としてはできるけど、そこを研究のメインにはできない。僕たちは沖縄戦がどう語られるかを聞きに行くんじゃない。沖縄戦を聞きに行くんです。
 だから、人びとの話を聞くんだっていう出発点は共有しながら、どうしても僕は厳密に経験的な方向には行けなくなってしまう。それは、そこで当事者との関係性ができてきて、そして巻き込まれていくんですよね。その、巻き込まれていくんだよ、っていうことを『マンゴーと手榴弾』で書いたわけ。フィールドワークっていうのが、どういう経験かっていうことを。
 たとえば、沖縄戦のようなある歴史的な大きな事件があって、それを経験した社会っていうのは、そのあとどうなるのか、ということをベタに物語る、ベタに書く、僕自身がそれを物語るということをしたいなと思っているときに、語りを語りとして聞いてしまうと、語りを、こうなんか、台なしにしてしまうことにもなるわけですよ。あれは事実として聞かないと。事実として喋ってくれるんで。
 でも、それを聞くときの理論がない。たとえば沖縄戦のような状態で、人びとがどうやって行為するのかの定理なんて、ないでしょ、社会学で。それを作ってほしい。

稲葉 そこで求められているのは何か、と考えてみると。エスノメソドロジー以降というか、これまでのところ特に会話データが重要だったので「会話分析」という言葉が使われているけど、ダイナミックな社会プロセスの、とりあえずわかりやすい比較的厳密な記録として出てくるのが「会話記録」になる。そして今後は、映像も含めて、より大規模にかつ厳密に人間の行為や社会をモニタリングする技術がどんどん発展していくんだと思うんです。ウェアラブルセンサーを用いたり、監視カメラを導入したり、といった管理技術の発展と共犯関係を持ちながら進んでいきかねないものであるし。

岸 いや、そこでSFに走る必要はないわけでしょ。沖縄のヤンキーを調べている打越さんにとって、それがどういう役に立つのって話。

稲葉 役に立たない。

岸 そうか(笑)。

稲葉 それは役に立たない。だから、手持ちの材料でしのがなければいけないわけで。

岸 そうそう、その通り、手持ちの材料でやるしかない。でもそれだと、手に入れられるのはその場の会話の記録だけ、ということになります。ここからどうやって脱出して「ベタ」なことを書くかというと、純粋に経験的な方法だけだと難しい。
 ちょっと戻りますけどね。実際に記述をどのレベルで経験的にあるいは厳密にするかというのは、まあぶっちゃけテーマによりますからね。僕はこういう歴史的なテーマなんでこういう主張をしますけど、研究者によっては、その場の医者と患者のコミュニケーションっていうのが問題になるときはそこをちゃんと録音して、厳密にやればいいわけであって。それぞれのテーマで手分けしてやればいいだけの話なんですけれども。
 でも、稲葉さんはこの本で合理性ということをやっぱり中心に持ってきたわけで。そんときの、厨先生にとっての合理性って簡単に言うとどういうことなの?

稲葉 教育の話に引き戻すと、具体的な調査をしないと、今の若い人たちは論文を書きにくい。ただ、そのときにいわゆる「量的」といわゆる「質的」という、社会調査のやり方に2通りあるように見える、と。「質的」って言いかたは本当はよくないと僕は思っているけれども、その両者の関係をどう関係づけるかっていうのをやっぱり教育としてやっておかないとまずいんですね。ある時期まで、現在もひょっとしたらそうかもしれないけど、計量的、統計的な言及する人たちと、事例研究をする人たちの間で、棲み分けというか没交渉というか、場合によっては党派的な対立関係があったので、それはやっぱりおかしいだろうと。じゃあ、その2つをどう関係づけるのかと。ということをやりたかった。
 この問題は実はだから社会学だけじゃなくて、政治学で非常に悩んでた人たちが特にアメリカにいて、有名なそのG・キング、R・O・コヘイン、S・ヴァーバの教科書『社会科学のリサーチ・デザイン――定性的研究における科学的推論』(勁草書房・2004年。通称KKV)ていうのが出ましたね。KKV以降、政治学における事例、定性的研究と定量的研究との対比と関連付けを主題とする本が、いっぱい出たわけですけども。たとえば「単一事例分析にどんな意味があるんだろう」って本もありますよね。歴史的素材を使っての事例研究ってのは政治学では非常にね、たくさんあるわけですけど。一方で「ポリティカルサイエンス」と称して、計量分析を軸とする研究が近年非常に勢いを得てきて、この両者の研究はどういう関係があるんだろうって悩んだ人たちがいっぱいいたし、教育上で学生にも何を教えるか悩んでいる人たちがたくさんいて、KKVの作業っていうのが、いわゆる質的研究も量的研究も違うことをしているわけではないのだということを強く言ったと。あれを念頭に置きながら社会学でも同じことがある程度言えるだろうと議論をしたわけです。

役に立つ教科書

岸 社会学者は、意味を理解する、他者を理解するって簡単に言ってきたんですね。分厚く書けとかね。でも「分厚く書け」ってどういうことやねんってね。字数が多ければいいのか。違う。他者を理解するってことは理由を書くってことなんですよ。だからやっぱり合理性なんですよ、やっぱりね。広い意味での合理性ですよ。

稲葉 その合理性っていうものをどう理解するか。因果関係を理解するってことと別次元のことをやっていることのではおそらくなくて。

岸 そう、ない。

稲葉 あえて、まあ哲学的な言葉使いで「自然主義」っていう言い方をすると、我々が合理性って呼んでいるものは非常に広い意味で因果的なメカニズムの一環で、特殊なものだと。という解釈はできる。

岸 そう。

稲葉 それは、言うとちょっと嫌われる可能性が高いんですけども。ただ、それでやれるところがあるんじゃないかと思っているんですよね。

岸 やっぱり、ここから分かれると思うんだよね。さっきの話やけどね。質的な方で言うとして、ある行為は合理的ですよってことを僕らが書いたとして、それが本当に正しいのかどうかっていうのはどうやって保証されるんだっていうところで、わりと先行きは厳しいよね。僕も稲葉さんもわりと自然主義的なところがあって、僕はとくに生活史をやってるくせにユルい自然主義なんですが(笑)、それは、人間の行為の理由や動機にはある程度の「共通性」がないと、「理解」ということそのものが成り立たないからなんですね。だから、ミクロでローカルなところで一生懸命語りを集めてるんですが、それは根本のところでは、法則性とまでは言わないけど、ある程度の共通性があるはずだと思ってやってるんです。でもそれを、いまの社会学のなかできちんとした形で述べるのは、とても厳しい。

稲葉 厳しいです。たとえば、まあ本気で信じているわけではないけれども、私は本気で信じていないことが多すぎて、仮にこう考えることもできるよ、あれでこう考えることもできるよって、絶えず留保し続ける人間なんですけども。

岸 前置き長いよねえ(笑)。

稲葉 そういう意味で、一つの考えとして言うと、今言ったようにたとえば結局すべて、もちろんすべては法則性に従ったり、法則性に従って個別具体的な因果的な出来事が起きていて、全知の神様だったならば法則性の理解だけで済む――細かいところまで法則から演繹していけるだろうけど、私たちはローカルで矮小で愚かな存在なので、法則の理解だけじゃ世の中の理解ができなくて、法則が世の中の局所的なところで具体的にどう与えられているかを常に見ざるをえない。まずこれがあります。
 そのうえで、因果メカニズムの一種として合理性があるっていう、いわゆる主体的な生き物の合理性なるものがあるという考え方をするわけ。
 それは何なのかっていうことなんですけども、そこで暫定的にこの本の中でちょろっと言っているのは、たとえば結局その法則性が宇宙を支配している的な考え方での、私たちのお手本って何かっていうと物理学なんだけれども、物理学の理論って実は公理主義的にできていて、つまり「ある前提のもとにこういう風に理解すると世の中がうまく見えるよ」という、案外規範的なものの見方をしている。「世の中は現に間違いなくこうなっているんだよ」というように確信して、そこからすべてを演繹する、というより、「「世の中こういうふうになっている」と考えるとうまく理解できるよ」って、実はそういう公理主義的な考え方を物理の人たちもしていて、それをここでまあ一応「最適化」と呼んでいる。

岸 最適化。

稲葉 最小作用の原理ですね。いわゆるフェルマーの原理だと、光は常に最短距離を通る、なぜだか知らないけど、心もないのに計算もしないのに、宇宙の中のありとあらゆるものは、とにかくその最小作用の原理を満たすように動くと、それ以外の経路は取らないと、そういうような公理があるんだけど、でもその公理通りに世の中が動いていると見て、別に問題ないわけですよね。物理の世界だと。

岸 そうそう。

稲葉 合理性っていうのもそれと同じ構造をしているけれども、ただ人間は合理的でない行動をいくらでも取る。もちろんあんまり合理的でないことをしているとやがてやっていけなくなるので、合理的な方にいる人びとの行動へ引き寄せられるようになっているけど、やはり合理的でないことはいっぱい起きると。そういう風な性質があるよって、まずは言える。で、その中間的なところに生き物を置くと。

岸 生き物を置く(笑)?

稲葉 環境に適応していない生き物は長い目で見るといなくなるので、たとえば現在我々の目の前にある生き物はたいがい環境に適応しているけども、ただ短いスパンで見るならば適応しきれない生き物だっていっぱいいる、と。いっぱいいるけどそのうち滅びると。で、人間の場合はそういう時間のスパンがもうちょっと長い。だから合理性に従わない現象はいくらでもあるけれども、合理的な方向に何となく行くように、合理的な振る舞い方ってのが、まあ一応重心っていうか、軸のような形になっているのね。

岸 そうそう。だからね、そのまあ全部の行為が合理的になっちゃうわけやし、今の秩序が最適の秩序っていうふうにもなっちゃうけど、でもそこまでは言わなくて。
 僕らがやっていることは本当にケーススタディなんで、もうごくごく身近な周りのことしか記述できないんですよ。で、そのときに最適化しているかどうかなんて、言えないですよ、それは。言えないですけども、非合理的な行為はたくさんあるんですね、たしかね。あるんやけど、でもやっぱり詳しく調べてその人に会って話を聞くと、やっぱり理由はあるんですよ。繰り返しになりますけどね。自殺だって何だって理由があるんですよね、それはその人なりのね。
 だからその合理性だけじゃなくて、もうちょっと外的環境への適応みたいなところまでいま考えているんですけども。合理性というものは、もうちょっとね、僕の言葉でいうと、そのみんなやっぱりそれぞれいろんな人がいて理解できない人もいるし、「あいつバカだな」っていう人もいるけど、その人なりに良かれと思って人生を必死で生きているわけですよね。必死に生きて、人生にコミットして、そこには切実なものがあるわけじゃないですか。共感はできないにしても、言葉で理解できる、「わかる」わけですよね。わかるところはあるわけ。
 じゃあそうすると、言葉でわかる範囲でもいいから、この人がこういう非合理的なことをするのはこの人なりのこういう事情があるんですよ、っていうことを「まあ書きましょうよ」と、そういうことを『質的社会調査の方法』に書いたんですね。だから、それは、この人の壮大な話でいうと因果的メカニズムということなんですね。

稲葉 今のような言い方でまた教育の話に戻しますと、だからこの学生さんがオリジナルの調査で論文を書こうとする際には、具体的な因果連関を、ある一貫した秩序だったものとして描こうとするときに、案外と当事者の合理性――意識してはいないかもしれないけれども――という枠組みに沿って理解する、というやり方が有効なのではないか。つまり、人は常に計算づくで動いているわけではないけれど、少なくともあまり無理をしないようにして生きている、その「無理のなさ」の構造を理解しようとする、というやり方は一つのね、現代社会学において論文の書き方として成り立ちますよ、と。

岸 成り立つますよ。そう。

稲葉 安心して、やるための、というか安心してそういうお説教を学生さんにするための「舞台裏」を作るというのが『中級編』を書いた動機で。

岸 この本ですよね。

稲葉 実はその絵の舞台裏の仕掛けを掘っていくと、いま言ったような話は相当怖い話で、そういう怖い話はおそらくは、それこそ哲学っていうか、たとえば『中級編』では合理性の話はドナルド・デイヴィドソンにひきつけたけど、たとえば因果理解、因果性と法則性の話はもっと厳しい、科学哲学とかね、あるいは形而上学の話ですね。
 多くの社会科学者が因果分析をやろう、ということになった背景には、因果関係に関する哲学的な概念更新があったんですね。これが起きたのが1970~80年代で、中心になった人がロバート・スタルネイカーとデイヴィッド・ルイスで、ルイスっていうのはいわゆる「可能世界に関する現実主義」という、とてつもなく頭がおかしい、

岸 猛烈に直感に反する本です。

稲葉 とてつもなく変な形而上学を展開した人で、ほとんど妄想に近い。でもそんな妄想めいた議論によって切り開かれた因果性への理解が、たとえば現在の統計的因果推論している人にとってはね、役に立つっていうか、非常にインスパイアされてますね。

岸 役に立ちますよ。その人が住んでる世界、その人なりの合理性って、ようするに「可能世界」って言ってもいいかもしれない。もちろん、形而上的な話を、こんなベタなフィールドの話にそのまま持ってくるのは強引すぎますが。それでも、別の世界にある、別の因果的連関を説明してもらう、なんでそれはそうなってるのか、その原因を、あるいは理由や動機を教えてもらう、というのが質的研究なんですよ。だからそういう意味では、ここでの合理性と因果性っていうのは、非常に近いです。
 院生さんにも、そういうことをしてくださいってよく言ってるんです。私がいる立命館の先端研にも、フィールドワーカーの院生が入ってきますからね、たくさん。人びとが、何でそういうことしているか理由をよく調べて書きなさいって。それが論文ですよって言ったら、やっぱりよく伝わる。さいきん院生さんたちが結構いい論文を書けるようになってきた気がします。まあ、自画自賛ですけどね(笑)。
 だからそれを後押ししてくれたのが厨先生で。『中級編』は、すごく抽象的な話をいきなり説明抜きでやっちゃったり、薄い本だけど読むの大変だと思うんだけど、でも実は、僕みたいなベタベタなフィールドワーカーにものすごく近いことを言ってくれてるんですね、この本は。だから人びとが何をしているのかなんか考えるときに一生懸命これを読んで、わかんないところは調べて、そうやって読むとものすごく役に立つ本やと思います。ということで。

稲葉 そろそろ時間がきましたかね。

岸 とりあえず、今日は長い時間ありがとうございました。

有斐閣 書斎の窓
2019年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク