天才バカボンから宮本輝まで『DEATH STRANDING』へ繋がるゲームクリエイター・小島秀夫の創作の根幹とは

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【日本語版】

はじめに MEME(ミーム)が繫(つな)いでくれるもの

「本のない世界なんて考えられない」

 本書の親本(オリジナル版)である『僕が愛したMEME(ミーム)たち』の冒頭に、こう記した。あれから6年以上が過ぎた今でも、それは変わらない。

 しかし、僕と僕をめぐる状況は大きく変わった。

 2014年3月に『メタルギアソリッド(MGS)V グラウンド・ゼロズ』を、2015年9月に『メタルギア ソリッドV ファントムペイン』を発表した。そして同年の12月に独立し、コジマプロダクションを設立した。

 ゲーム創(づく)りから離れ、しばらくは小規模な映画を撮ったり、文章を書いたりという生活をしようと思った瞬間もあったが、世界中の仲間やファンの声に応(こた)えたいという気持ちの方が強かった。だから、これまで通りゲームを創る道を選んだ。

 6畳にも満たない小さなオフィスを借りて、人を探し、制作のためのツールやエンジンを探すために、短期間に文字通り世界中を飛び回った。スタッフが増えて新しいオフィスが必要になり、場所を求めて都内を歩き回った。もちろん同時並行で新作の開発も始めていた。時間がいくらあっても足りない状態だったが、それでも毎日、欠かさなかったことがある。

 それが本屋に通うことだった。

 本屋に通い、本を手に取り、気に入ったものを購入し、読みふける。出張の時も鞄(かばん)に何冊もの本を入れておかないと落ち着かない。それは今に至るまで変わらない習慣であり、習性だ。

 鍵(かぎ)っ子だったので、子供の頃から家に帰って部屋の灯(あか)りを点(つ)けるのは、僕の役目だった。一人の家で本を開くのが、僕の日課だった。孤独で、寂しさを感じていたが、それに押し潰(つぶ)されなかったのは、本のおかげだった。

 父を早くに亡(な)くしたせいもあるのだろう、僕の周囲には目標となるような立派な大人がいなかった。しかし、人生を導いてくれる大人や師匠のような存在は、本の中で見つけることができた。

 本を読むことや、映画を観(み)ることは、疑似体験ではあるが、立派な“体験”だ。

 もちろん、実際に旅をして、その土地の空気を直接感じる方がいいだろう。山に登った話を人に聞くよりも、自分で登った方がいいに違いない。しかしそれにも限度がある。だから本や映画で、他者の体験や感じたことを疑似的に体験し、共有することに意味があるのだ。

 行くことのできない過去や未来、遠い世界を体験できるし、自分と違う民族やジェンダーにもなれる。本は一人で読むものだが、そこで繰り広げられている物語を多くの見知らぬ人と共有できる。

 孤独だが、繋(つな)がっている。

 その感覚に、子供の頃からずっと助けられてきた。

 だから僕は、本書によって、本が与えてくれた“繋がっている”という感覚を誰かに伝えたいと思っている。

 そんな繋がりを媒介(ばいかい)してくれるのが、MEMEだ。ご存知の方も多いだろうが、これは進化生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱した概念である。生物学的な遺伝子(GENE)とは異なり、文化や習慣や価値観などを次世代に継承していく情報のことだ。物語は、MEMEの形態のひとつだと言っていいだろう。語り継がれ、読み継がれて、文化を継承していくのだ。

 人と人の繋がりが遺伝情報(GENE)を継承するように、人が本や映画と繋がることで、MEMEは継承される。

 世界中に、本や映画や音楽は無数にある。それらを全て体験するのは、到底無理だ。だから、自分が死ぬまでに、どんなものと出会えるか、というのが僕の人生において、重要な意味をもっている。

 出会いというのは偶然で、運命的なものだ。どこで何が、どんな縁で繋がっているのかわからない。だから僕は、ただ漠然と待っているのではなく、自らの意思で行動し、選択した上での出会いを大事にしたいと思うのだ。これは、人との出会いと同じだ。

 だから僕は毎日、本屋に通う。

 出会いを創るために、通い続けるのだ。

 毎日、いろいろな本とすれ違う。何か引っかかる本、訴えかけてくる本、素通りしてしまう本、それぞれに違う絆(きずな)がある。それを確かめていくうちに、自分にとって意味のある出会いを見つけられるようになる。自分の感性が磨けるようになるのだ。

 本も映画も、音楽も、人が創ったものである以上、全(すべ)てが“当たり”であるはずがない。むしろ、9割が“はずれ”だ。しかし、残りの1割には、もの凄(すご)い作品が存在している。僕も物創りを生業(なりわい)にしている以上、その1割に入る作品を創り続けたい、と常に思っている。

 そのためにも、僕は誰かが創った1割の“当たり”を引くための感覚を鍛え、磨き続けていたいのだ。だからと言って、特別なことをしているわけではない。本屋に行く。絆を感じた本を買って、読む。それが“はずれ”だったとしても落胆する必要はない。それは“当たり”を引くための訓練の一環なのだ。だからそれを読んでいた時間は、無駄ではないのだ。次の出会いに繋がるための重要な時間だとも言える。

 僕の書庫にある本のほとんどに、買った時のレシートが挟まっているのは、そんな時間を忘れないためでもある。本屋の店名と日時が印字されているレシートを見返すと、本の内容だけでなく、本屋に出かける前から、読み終えた時の余韻までの前後の時間や、買った本屋や読んだ場所の記憶も蘇(よみがえ)ってくる。

 どんな本であっても、たとえそれがつまらなかったとしても、その本と共に過ごした記憶は自分だけの記憶であり、自分にとっての特別な物語なのだ。

 そして、新しい出会いを、1割の“当たり”を求めて、また本屋に行く。

 毎日通っていると、その店を巡るルートがいつのまにか形成される。定点観測をするには効率がいいが、その反面、本屋に行く魅力や意味が薄れてしまう。ルートが決まると、他を見なくなってしまうからだ。だから、馴染(なじ)みのない本屋や新しい本屋に行くと、自分の思考が撹乱(かくらん)されて、戸惑いながらも、面白い体験ができる。たとえ入荷されて並んでいる本が、馴染みの本屋と同じだったとしても、店の規模やロケーションや本の配置が違っていると、同じ本でも別の顔が見えたりもする。

 同じ言葉が、使われる文脈やシチュエーションによって違う意味を持つことに似ている。同じ人が違う人間関係の中に組み込まれると、違った魅力を放つことを発見することにも似ている。

 だから、何度でも繰り返すが、本屋に通うことはやめられないのだ。

 今でもそうだが、Webやソーシャルメディアがなかった以前はなおさら、本屋は最先端の情報の集積場だった。店内を一巡すれば、世の中でどんなものが流行(はや)っているか、だいたいの見当がつく。本屋は今でも、世間の縮図なのだ。

 たとえば、NHKの朝ドラに関心がなくても、関連本が数種類並んでいれば「ああ、視聴率がいいんだ」と想像できるし、知らない俳優の写真集が平積みになっていれば、今はこの人が人気なんだ、とわかる。スポーツ、実用書、経済やビジネス書、そしてマンガのコーナーと一通り見れば、世の中のおおよそを俯瞰(ふかん)できる。

 それくらいの情報はネットでも入手できると言う人もいるだろうが、そうではない。ネットでは情報はフィルタリングされているし、自分の興味のあること、好きなものしか見ない。本屋にいれば、関心のないジャンルの情報まで目に飛び込んでくる。本屋には、ネットにはない文脈があるのだ。もちろん、ネットを使いこなしている世代にしてみれば、ネットには独自の文脈があるし、そこから生まれる“出会い”もあるはずだ。それを否定するつもりもないが、やはり本屋と本には拘(こだわ)りたい。

 手で触れることのできる本が陳列されている本屋に足を運び、店内を歩き回り、自分の目で平台や棚差しになった本を眺め、それを手にとってレジまで運び、レシートを挟んでもらって、それをじっくり読みたいのだ。

 その拘りは、僕のような旧世代のノスタルジーに由来するものではない。本を選ぶことや映画を選ぶことは、人を選ぶことに通じる、ある種の普遍性がある。

 あの膨大で圧倒的な量の本が集まっている本屋で、1割の“当たり”を探し出すには、前述したように日々の鍛錬や訓練が必要だ。店頭で「新刊 小説 当たり」とワードを入れて検索することはできない。探し出すための時間も手がかりも、限られている。

 表紙を見る、帯の文句や推薦文を読む、裏表紙のあらすじや、あとがきや解説を読み、本文を斜め読みする。それらの手がかりを基に、自分の感性と価値観で“当たり”かどうかを判断するのだ。

 一緒に仕事をする人や、企画やプロジェクト、様々な提案などを判断するのも同じだ。それらはすべて、読了する前の本と同じだ。読む前に判断をしなければならない。

 本ならば「面白くなかった」で済むかもしれないが、仕事やプロジェクトに関わることになれば、多くの人を巻き込んだ大惨事になる可能性すらある。どこかに旅に出る時も、本の中での体験ならともかく、現実の旅での失敗は命に関わることもあるだろう。

 そのことをもって、本を読むことは疑似体験で傷つかないから、現実の体験には劣ると批判されるだろうか。そうではない。それは、本や映画というMEMEに触れることで、現実に参入するための知識や英知を手に入れるという紛れもない“体験”なのだ。

 本を選ぶという日々の行為は、現実にフィードバックされる。

 ありがたいことに、僕の作品には作家性があり、オリジナリティがあると評価してもらえている。それもまた、本屋に行って本を選ぶという行為に支えられていると言ってもいいだろう。自分の目と感性で“当たり”を選ぶ訓練が、僕だけの価値観を形成し、オリジナルな作品に結実してくれているおかげだと思う。

 もちろん、誰かの意見や紹介で本や映画に接することも必要だが、本を開いた瞬間に、自分の感性と価値観でその世界に入っていくことが必要だと思う。

 誰かが褒めたものが面白くなくても、まったく問題ない。それは、あなたの価値観で判断されたことだから。あの人が褒めていたから面白かったというのは、誰かの意見をツイッターでただリツイートするようなものだ。そこには「あなた」はいない。間違っていても、意見が合わなくても気にすることはない。自分の目と頭で、“当たり”を見つけることがどれだけ素晴らしい結果を生むことか。僕の“当たり”とあなたの“当たり”は違うかもしれないが、それでいいのだ。

 それを伝えたくて、僕は作品を創り、文章を書き、映画や本の推薦文を書いているのかもしれない。

 本書に収められた文章は、僕が僕自身の足と目と頭で選んだ本や映画のごく一部だ。このラインナップが、いやこの文脈が小島秀夫という人間と、作品を創った。これらが伝えてくれたMEMEが僕に創作や生きるためのエネルギーをくれた。

 どの作品も、オリジナル版が世に出てから今に至るまでの年月を超えても、魅力を失っていない。だからこの文庫版で、僕はもう一度、これらのMEMEを「あなた」に手渡したいと思う。そのMEMEが、僕たちを繋いでくれることを願って。

2019年11月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
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