リケジョの著者がしなやかに描く「理系」vs.「文系」の対立項
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
若いときは自己愛が情動の基本である。自分が理解されていないと悩み、相手が自分と同じように感じていないと不安がる。語り手の「わたし」もそういう人物だ。中国系アメリカ人のリケジョで、おなじ研究室で出会った、文句のつけようがないくらいいい男と一緒に暮して二年、彼から結婚を申し込まれているが、色よい返事ができない。なぜか? という自己分析が小気味よい文章で展開される。へたすると愚痴になってしまう内容が、科学の知識を応用した形容や比喩の効果により、ピリッと引き締められている。
物事を割り切るのが下手で、ああでもないこうでもないと考えずにいられない女と、「矢が的に向かうみたい」に一直線に進み、悩まない男。ふたりの対照的な性格には育ちの違いが絡んでいる。「わたし」が屈託を抱え込みやすく天の邪鬼なのは、アメリカと中国という異なる文化のはざまで生きてきたからだ。英語はネイティブ並とは言いがたく、母親に至っては話せもしない。父親は猛烈な努力をしてエンジニアとして成功したが、それゆえ娘が博士号取得にもたついているのが理解できない。妻のことも見下し幼いときから夫婦喧嘩をいやというほど見せられてきた。愛情深い両親の元でぬくぬく育った一人っ子のエリックに比べると、彼女には錨を下ろす港がなく、不安が習い性になってしまったのである。
性格はいいが人間洞察が深いとは言いがたい、典型的な理系人間のエリック。彼には、自問自答を繰り返しては屈託の中身を解剖する彼女が理解できない。だから彼女が苛つくのもわかるのだ、文系の私からすると。
だが、リケジョでありながら小説も書くという才人の著者は、どちらかの肩をもつことなく、理系vs.文系という対立項をしなやかに往復してみせる。頭のいい人にちがいないのに、頭のよさが嫌みにならないのは、人間的なかわいさが出ているからで、この作家の最高の美質だ。