祇園(ぎおん)の祇園祭 澤木政輝(さわき・まさてる)著

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祇園(ぎおん)の祇園祭 澤木政輝(さわき・まさてる)著

[レビュアー] 岡本啓(詩人)

◆神事を担う心情を伝える

 見上げるほどの山鉾(やまほこ)、宵山(よいやま)のそぞろ歩き。祇園祭といえば思い浮かぶ風景だ。京都に住みはじめたのだから、いくら猛烈な人混みが苦手でも、夕刻になるとぼくもいそいそと観光客になって出かけてみる。物憂いコンチキチンの音色のせいなのかもしれない。宵山には高揚感のなかにも不思議な落ち着きがある。出店の賑(にぎ)わいにも、祭の印象として、どこかお客さんばかりを見ていない清々(すがすが)しさがあるのだ。なぜなのだろう。その理由が伝わる一冊と出会った。

 本著は、神事としての側面から祇園祭をあつかう。祇園祭は一か月にわたる複合的な祭礼で、神事の中心は神輿渡御(みこしとぎょ)にある。山鉾巡行の本来の意味は「穢(けが)れを集めて回り、祓(はら)い清め、人々が集まる神賑わいを創出すること」。祇園生まれの著者は、中学三年のときから、神事の中核を担う宮本組として祭に奉仕してきた。それゆえ祭のない時期も折に触れておもう。「一か月にわたって神様にご奉仕させていただいた熱意が、余熱となって体の芯にくすぶり続けている」

 「組員が『円融(えんゆう)さん』と呼ぶときには『我(われ)らが祖』とでもいうべき親近感」があるそうだ。一千年以上前のことにもかかわらず、円融天皇の勅命を受けて祇園祭を斎行しているという意識を彼らは胸に抱いている。同じ日本列島で生まれながら、ぼくとはなんと精神的な隔たりがあることだろう。ただ、そうはいっても日本各地にはあまたの祭がある。ぼくの見かけてきたどの祭にも、担い手たちには特別な心持ちでむかう一日があるのだ。

 本著が、情熱だけでなく正確さをあわせもつのは、著者の新聞記者という職業ゆえだろう。資料としての側面は、いまだこの世にいないものにとってさえ意味をもつ。七月の宮本組一か月間のルポルタージュからは、祭にむかう心情が伝わってくる。わずかに緊張した、なにかとても大事なことを目の前にした面持ち。神さまや祭を失ったこんな自分のようなひとも、本著をめくればその清新なひとかけらをもらえるのではないか。

(平凡社・2640円)

1973年生まれ。毎日新聞記者。京都造形芸術大非常勤講師。

◆もう1冊 

アリカ、新潮社編『祇園祭-その魅力のすべて』(新潮社とんぼの本)

中日新聞 東京新聞
2019年12月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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