『岸辺のない海 石原吉郎ノート』
書籍情報:openBD
岸辺のない海 石原吉郎(よしろう)ノート 郷原宏著
[レビュアー] 井坂洋子
◆詩作の原点 シベリア抑留
石原吉郎は、諜報(ちょうほう)要員として陸軍に召集され、終戦を迎えながら強制収容所(ラーゲリ)に送られた。八年間の収容所生活が詩作の要となった稀有(けう)な存在である。彼の詩壇デビューは帰還後のことであり、体験を思想化した人でなければ書けない数々の名エッセイもうまれた。詩と同様に、そのシベリア・エッセイの無類の輝きに惹(ひ)かれて、いったい何人の人が評論を書いたことだろう。著者の郷原宏は「私にはもはや書くべきことは残されていない」と感じたとあとがきで述べている。
しかし本書は、石原の過酷な体験を四期に分け、実証に裏打ちされた文章で、類型的な視点に陥らぬよう腐心しながらも、大胆に踏みだしている。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」。強制収容所の取調官を前にして、そう言った男がいる。石原にとって、過酷なラーゲリ体験の中で彼と出会ったことは最大の事件であり、石原は「ペシミストの勇気について」というエッセイで彼を讃(たた)えた。
囚人たちはシベリアの木材伐採現場まで五列縦隊で行進するのだが、列の外へ出れば警備兵に射殺される。そこで皆「内側三列に割り込もうとして」争う。だが、彼だけは常に外側に並んだ。著者は、石原が「勇気」と呼んだ行為を「自殺願望のあらわれ」か「世捨て人の自己放下の姿」と述べている。このような独自の見方で石原のエッセイの神格化にメスを入れる。
とはいえ、著者は石原の背中を見すえ、彼と一体化し、石原の詩にからめて「われわれを振り回した主人(国家)のために、われわれはもはやなにものも残してはならぬ」と書く。石原も著者も政治とは距離をおき、その分冷徹な目で物を見ていると思う。
詩人石原吉郎を知らずとも、日本の悪い季節の犠牲になった人間の苦闘の生に感銘を受けるだろう。本書はまた、難解な詩人としての彼の作品がどのような体験を経てうまれたか、はっきりとした解き明かしがあり、私は初めて石原の詩の理解が深まった。
(未來社・4180円)
1942年生まれ。詩人・文芸評論家。著書『郷原宏詩集』『乱歩と清張』など。
◆もう1冊
『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)。詩集『サンチョ・パンサの帰郷』などの詩やエッセイ「ペシミストの勇気について」などを収録。