江國香織の『去年の雪』にBGMを付けるならドビュッシーが良い――「とけた電球」の境直哉が最新刊を音楽で読み解く!

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

去年の雪

『去年の雪』

著者
江国, 香織, 1964-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041089842
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

江國香織の『去年の雪』にBGMを付けるならドビュッシーが良い――「とけた電球」の境直哉が最新刊を音楽で読み解く!

[レビュアー] 境直哉(ミュージシャン)

書評家・作家・専門家が《新刊》をご紹介!
本選びにお役立てください。
(評者:とけた電球 Key.境 直哉 / ミュージシャン)

 江國さんの文章は、登場人物に命が宿るまでが本当に早い。読み進めるとすぐに人物像がイメージ出来てしまう。例えば、「プラットフォームと電車のあいだの隙間をまたぐとき、 小沼茉莉子はいつもすこし緊張する」という一文で始まる段落がある。これだけで小沼さんという女性の容姿や性格、声のトーンまでイメージ出来てしまうから凄い。誰の日常にも登場し得るシーンなのに、それを一番に伝えられる事で小沼さんの気の弱そうな目の動きまでが想像されて、なんだか親近感が湧いてくる。

 この小説には多様な登場人物(本当に多くの人!)が老若男女、時代を超えて登場し、それぞれの生活が描かれる。登場人物の人格や主観にスルスルと引き込まれていくので、いろんな感情や景色の中を旅するような楽しさがあるのだが、ふと「あれ、これどこかで見たような…」と思い当たる。そして、「あのとき出ていた人の孫息子か!」と、それぞれのシーンが少しずつリンクしている事に気付くのである。ハッと何かに気付く瞬間の、針に糸が通ったときのような爽快感は何故あんなにも気持ちが良いのだろう!

 そして読み進めていくうちに何かが僕に訴えかけている事に気付く。生きている、あるいは死んでいるとはどういう事なのだろう。誰しもが身近なところで、もしくは少し遠い距離の“死”を経験しながら歳を重ねるのだと思うが、あの人の意志や思い出、遺してくれたモノは果たして死んでしまっているのだろうか。

 職業柄と言うと少しおこがましいが、僕は小説を読む時、「この話にはどんなBGMが似合うだろう」と考えることがよくある。「去年の雪」はドビュッシーの音楽が似合うかもしれない。ラヴェルやプーランクではなく、ドビュッシーの方が良い。明確なメロディが無くとも、冬に吹く風の速さや太陽の見事な明るさ、賑わう夜に感じる心地いい重さなんかが音の重なりや呼吸から感じられる音楽が似合いそうだと思う。ドビュッシーはそれまでの、ロマン派的な激しくダイナミックな感情表現ではなく、雰囲気や情景描写に徹してどのような感情を抱くかは聞き手に委ねるような印象派の代表的な作曲家であるが、特に「沈める寺」というピアノ曲を僕は思い起こした。フランス・ブルターニュ地方の伝説に登場する海に沈んだ大聖堂を描いた曲で、曲の序盤は音の薄いヴェールがぼんやり姿を見せるように始まり、ゆったりと、でも緊張感を持って徐々に幻想的な展開となるのだが、明確なストーリーは断片的で掴みどころが無いまま曲が進む。演奏者にとっても「柔らかく」 「霧の中から現れるように」と、漠然とした演奏指示が書かれた譜面が続くのだが、曲を最後まで演奏すると終わりの余白部分に「La cathedrale engloutie(=沈める寺)」と記されており、ハッと曲のテーマに気付かされるという訳である。

 この小説を読み進めているとき、僕は似たような感覚に襲われた。描かれているのは主張や哲学、教訓といったものでは無くて、あくまでも景色なのである。現象や、エピソードという言葉によっても表現できるかもしれない。そこから何を感じるか、どういった思いを自分の中で芽吹かせ育てるかは読み手に委ねられているのである。僕は最後の 30 ページ程で強烈な感慨に襲われた。僕に訴えかけていた“何か”が自分の中で繋がったのである。それはとても心地の良いもので至極な読書体験となり、最後の一文を読み終えたときに「ああ、僕はまたこの本を手に取って読み返すときが来るだろうな」という確信に近い満足感があった。きっと歳を重ねて読み返したときにはまた別の発見があり、また素晴らしい読書体験が出来るのだろうと自信を持って未来の自分にオススメ出来る。皆さんは読んでいてどの辺りで気付くだろうか。そしてどんな想いを抱くだろうか。僕は今、この本を読んだ人と早く語り合いたいという気持ちでいっぱいだ。

江國香織『去年の雪』
江國香織『去年の雪』

▼江國香織『去年の雪』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321909000209/

KADOKAWA カドブン
2020年3月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク