寺田寅彦の名随筆待望の復刊! 日常生活の不思議に着目。科学者の視点から、観察することの大切さを教えてくれる39篇を収録『科学歳時記』

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科学歳時記

『科学歳時記』

著者
寺田 寅彦 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784044005863
発売日
2020/05/22
価格
924円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

寺田寅彦の名随筆待望の復刊! 日常生活の不思議に着目。科学者の視点から、観察することの大切さを教えてくれる39篇を収録『科学歳時記』

[レビュアー] 竹内薫(サイエンス作家)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:竹内 薫 / サイエンス作家)

 寺田寅彦といえば、私が学生の頃は、「科学者で随筆家」というジャンルでは右に出る者がなかった。夏目漱石から派生して、その弟子筋である内田百けんや寺田寅彦へと読み進むのが、ある意味、定番だったのだ。

 寺田は東京に生まれ、父親の郷里である高知、名古屋、東京と引っ越しが多かったようだ。熊本の第五高等学校へ進み、やがて、夏目漱石と運命の出会いをすることになる。これは、理系の寺田が、夏目という最高の恩師を得て、文学の道を志すきっかけとなった。

 実際、寺田といえば随筆であり、彼の物理学における業績を知る者は少ないだろう。東京帝国大学(いまの東京大学)を実験物理学の首席で卒業した寺田は、母校の講師、助教授を経て、当時の世界の物理学の最高峰であったベルリン大学に留学する。この頃は、主に地球物理学の研究をおこなっていたらしい。帰国後も幅広い実験物理学の研究を続け、X線回折の現象を追究し、学士院恩賜賞を受賞している。

 つまり、寺田は一線級の物理学研究をおこなっていたわけだが、では、同じ物理畑の人間である私が寺田の物理論文を読むかと問われれば、正直、読まないのである。私が読んできた寺田の文章は、論文ではなく、やはり、随筆なのだ。

 学生の頃、私の本棚には、寺田寅彦随筆集が置いてあった。その隣は夏目漱石全集であり、さらに隣は泉鏡花全集だった。一線級の物理学者だった寺田だが、おそらく、その真の才能は文学にこそあり、(言葉の壁の問題がなければ、)世界屈指の名随筆を遺したのだと私は思う。

「随筆は誰でも書けるが小説はなかなか誰にでも書けないとある有名な小説家が何かに書いていたが全くその通りだと思う。(中略)しかし本来はやはり客観的の真実の何かしら多少でも目新らしい一つの相を提供しなければ随筆という読物としての存在理由は稀薄(きはく)になる、そうだとすると随筆なら誰でも書けるとも限らないかもしれない」(雑記帳より 八)

 文学の世界における、一流と二流の議論である。人は誰しも、自分の仕事は大変で苦労が多く、他人は楽をしていると考えがちだ。実際には、そんなことはなく、どのような仕事も、それなりに大変で苦労が多いわけだ。しかし、主観と客観とは別物である。高名な小説家とて、「客観的の真実」を自覚することは難しい。

 この客観と主観という問題意識は、実は、寺田の専門である物理学とも深く関係する。

「近ごろ、アインシュタインの研究によってニュートンの力学が根柢(こんてい)から打ち壊された、というような話が世界中で持て囃(はや)されている。(中略)特別な数学的素養のない人でも、この理論の根柢に横(よこた)わる認識論上の立場の優越を認める事はそう困難とは思われない。(中略)誰れにでも分るものでなければそれは科学ではないだろう」(春六題 一)

 アインシュタインの相対性理論に触れた箇所で、寺田は、専門家らしく、その理論の本質を突いている。ニュートンの理論は客観的な理論であり、アインシュタインの理論は間主観的もしくは共同主観的な理論である。寺田は、この間主観もしくは共同主観という言葉は遣っていないが、それが現代物理学・哲学における解釈であり、その意味は、たくさんの主観があるが、その間をとりもつ何かがあり、それぞれの主観がお互いを理解し合える、ということだ。

 専門用語でいえば、それぞれの立場を理解し合うための何かにはローレンツ変換という名前がついているのだが、そこには深入りしないでおく。

 寺田の随筆は、本人が強調しているように、「客観的の真実」だけではない点が、大きな魅力であり、その意味で、アインシュタインの理論も、寺田にとっては、まさに「目新らしい一つの相」にほかならなかったのだと思う。

寺田寅彦の名随筆待望の復刊! 日常生活の不思議に着目。科学者の視点から、観...
寺田寅彦の名随筆待望の復刊! 日常生活の不思議に着目。科学者の視点から、観…

 実験物理学者であった寺田は、随筆においても、これでもかといわんばかりに実験と観察を記述している。特に虫や花(植物)の観察は、物理学者というよりも生物学者に近いのではないかと思わせるほどだ。

「烏瓜の花は『花の骸骨(がいこつ)』とでもいった感じのするものである。遠くから見ると吉野紙(よしのがみ)のようでもありまた一抹の煙のようでもある。手に取って見ると、白く柔く、少しの粘りと臭気のある繊維が、五葉の星形の弁の縁辺から放射し分岐して細かい網のように拡がっている」(烏瓜の花と蛾)

 それでも、生物を観察しているときに、ふとあらわれるのが物理学者の顔であることもたしかなのだ。

「この鳴声の意味をいろいろ考えていたときにふと思い浮んだ一つの可能性は、この鳥がこの特異な啼音(ていおん)を立てて、そうしてその音波が地面や山腹から反射してくる反響を利用して、いわゆる『反響測深法』(echo-sounding)を行っているのではないかということである」(疑問と空想 一 ほととぎすの啼声)

 物理学は、森羅万象を数式で記述し、実験と観測(観察)によって、その正しさを確かめる学問である。だから、人間を観察していても、虫や菌やウイルスによる現象を観察していても、常にそれを数式に乗せようとする。そんな物理学者の姿勢は、仲間内ではあたりまえかもしれないが、端から見たらどうなのだろう。たとえば、電車に乗ってきた人の身体にくっついてきた玉虫を拾ってきて(おそらく標本にした後で)、寺田は同僚らとこんな議論をするのである。

「吾々の問題は、虫が髪に附いてから、それが首筋に這い下りて人の感覚を刺戟(しげき)するまでおおよそどのくらいからどのくらいまでの時間が経過するものかというものであった。もしもその時間が決定され、そしてその人が電車で来たものと仮定すれば、その時間と電車速度の相乗積に等しい半径で地図上に円を描き、その上にある樹林を物色することができる。しかし実際はそう簡単にはいかない」(さまよえるユダヤ人の手記より 二 玉虫)

 錚々たる物理学者たちが、「午後の御茶」に集い、延々と玉虫がどこから来たかを探索する手段を論じている様は、グループ外の人間から見れば、異様な光景にしか見えないだろう。

 だがもちろん、このような状況は、おそらく現代の物理学者たちの間でも変わっていない。

 この解説を書いているとき、世界は混沌としている。中国の武漢に端を発した新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっており、日本での感染爆発や医療崩壊の恐れが、人々を不安のどん底に突き落としている。

 そんな中、世界中の物理学者たちが論文を書き始めたそうである。医者でも感染症の専門家でもない彼ら・彼女らは、物理学者の本能に突き動かされ、いてもたってもいられず、目の前で起きているウイルスの現象を数式にあてはめて、計算し始めたのである。

 かくいう私も、物理屋の端くれであるから、世界と日本の感染者数のグラフを睨みながら、微分方程式で数理シミュレーションをやってみた。これは、さほど難しいことではない。感染症数の方程式は、ほぼ確立されており、そこに感染者数のデータを当てはめれば、ほぼ自動的に感染者数の予測はできるのだ。

 ところが、一部の物理学者が、データサイエンティストや数理疫学の専門家の予測に文句を言い始めた。そもそもの数式が頼りない、物理学的に矛盾があるという指摘である。私はそれを見ていて、ああ、物理学者の悪い癖が出たなと苦笑を禁じ得なかった。

 なまじ数学能力が高いだけに、感染者数の予測をしている専門家が使っている数学の道具が頼りなく見えてしまうのだ。そして、おそらく、自分たちの方がはるかに高度な数式を駆使して、もっと正確に感染者数を予測できると信じているのだ。

 しかし、ここで気をつけなくてはいけないことがある。「しかし実際はそう簡単にはいかない」のである。小説家が随筆など誰でも書けると誤解するのと同じように、一部の物理学者たちは、感染症の数学など誰でも解くことができると誤解しているのではあるまいか。

 いま、物理学者と書いたが、どうやら、論文を書いているのは、どちらかというと理論物理学の人々であり、実験物理学の人々は静観を決め込んでいるような気がする。寺田が現代に蘇ったならば、「しかし実際はそう簡単にはいかない」と、逸る理論物理学者たちを窘めたであろうか。

 寺田寅彦といえば、学生時代に貪り読んだ随筆家であることはすでに書いた。寺田とは、一読者としてのつながりしかない私だが、ふと、子どもの頃のことを思い出したので書いておく。

 家庭の事情で、一時期、私は母親の実家に預けられていたことがある。祖父は捕り物小説を書いていた作家で、怖くて気難しく、祖母は八幡製鉄所の技師の娘で、いつもピアノばかり弾いていた。その家の近くに小さな文具店があった。これは成人してから母親に聞いた話なのだが、その文具店の店主が、寺田寅彦の血縁だったそうだ。いや、だからどうした、という話ではあるが、好きな作家の持ち物とか生原稿とか、そういったものにファンは弱いわけで、血縁というだけで純粋に羨ましいのである。

 もう一つ、ご縁があるといえばある。十年くらい前だったかと思うが、高知市の寺田寅彦記念館の学芸員の方からメールを頂戴した。なんでも、市のお偉いさんが「もう寺田寅彦の時代じゃないだろう」と、記念館の閉鎖を進めているというのである。かなり驚いた。寺田の随筆は時代を超えて普遍的なものだと思っていた私にとって、そういう安直な判断をする役人と政治家が憎らしく思われた。

 署名活動に協力し、他にも私より影響力がある科学者や文人が署名したこともあり、なんとか記念館の存続が決まった、という知らせをもらった。

 好きな作家の記念館存続に少しは役立ったかと思い、なんだか、無性に気分が爽快だったことを憶えている。
(文中敬称略)

▼寺田寅彦『科学歳時記』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322001000011/

KADOKAWA カドブン
2020年6月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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