コロナ問題で変わっていく価値観とは何か 養老孟司が考えるコロナ論【#コロナとどう暮らす】

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お金は労働の対価であり続けるのか?

 経済対策に至っては、私はまったくの素人である。国際経済なんて、考えるのに必要な情報は、ほとんど爆発的ではないかと思う。アベノミクスはよくわからなかった。フツーの人にはわからなかったと思う。わからないことがわかったから、アベノマスクになったのかもしれない。これならよくわかる。マスクが足りないなら、皆に配ればいい。だからマスクを配った。小学生でもわかると思うし、私だってわかる。

 働くところがなくなったから、収入が減った、なくなった。この対策はどうか。マスクと同じように皆にお金を配ればいい。三十万円の給付という話が一時出たが、これはダメだろうと思った。なぜなら話が面倒だからである。三十万円になる人と、ならない人を、どう分けるのか。それをきちんと決めると際限がなくなり、先の不確定性原理に引っかかる。どう分けたって、あれこれ議論と問題が起こるに決まっている。厳密に規定すればするほど、問題が増える。そんなこと、考えなくたってわかる。政治家は票が死活問題である。部分的に三十万円を配ると、自分の支持層に届かない可能性がある。それなら全体に配ってしまうほうがいい。

 というわけで、この分配もきわめてわかりやすい。わかりやす過ぎるくらいである。ではこうした対策のどこに「人知の進歩」があるのか。私は政治は嫌いだと公言しているが、今回の対策なら、私でも政治家ができるかなあと思ってしまう。べつに対策を批判しているのではない。そうするしかないんなら、それでいい。ともあれ、人知には、進む部分と進まない部分があるらしい。進むと思われる部分は認識で、対応策つまり動きの方は結局は昔のまま。

 テレビでこの十万円の対策は間違っていると強い口調で述べた人があった。ただし理由までは放映されなかった。たぶん財務省関係の人ではないかと思う。財務省が財政均衡、入った分だけ使え、という原則にこだわることは、私でも知っている。財政均衡の重要性は、二宮尊徳の時代からわかっている。では今回のように、裏付けのないお金を支出することはどうか。尊徳に訊いてみたい。政府がお金を出すとき、じつは裏付けはいらない。それは現代貨幣理論が説くところである。では裏付けのないお金を出せば、結果はなにか。お金の価値の下落である。それはインフレとは少し違う。インフレはぜひ必要だという需要に対して、供給が不足することである。不足するのがマスクだけなら問題はないと思いますけどね。「ぜひ」でない供給不足なら、バブルという。いまはむしろモノ余りで、おそらくインフレの心配はない。バブルが起きて、だれかが不用なものをたくさん買って、その価格が高騰したって、もともと不用なんだから、私の知ったことではない。お金の持ち主が変わるだけである。

 世界に存在する価値が一定だとしよう。お金はその価値を代替している。そこでお金の量だけをただ増やせば、つまりいわば「お金が湧いてくる」なら、お金の価値はどうなるのか。下落するであろう。財務省が本能的に嫌うのは、この種の問題ではないか。財務省の「権力」の根源はお金の配分にある。そのお金は世間に価値を生み出すあらゆる活動と結びついている。そこを左右するから、財務省が「偉い」のである。その時にお金の量だけ勝手に増えるなどという椿事が起これば、それは許せなくて当然である。私は財務省のことなど、さっぱりわからないから、そう疑うだけですけどね。

 いまは社会の状況が悪いから、それを考えて政府が保障し、お金を支出する。でもそのお金にプラスの裏付けはない。出所は政府の意志という、当座の怪しげなものである。民主主義だから、国民の意志かなあ。それなら医療関係者やスーパーの店員には、百万円を余分に配分してもいいんじゃないか。働きに応じて払うなら、そういうことになろう。私は政治家になれますかね。裏付けのないお金の裏付けはなにか。ヘンな疑問だが、それに回答はある。供給能力である。お金だけが増えて、それが現実に動き出した時には、消費に回る。その消費を満たすだけの供給能力がなければ、インフレが生じる。国家経済を支えているのは、そこでは供給能力なのである。供給は可能か不可能かだから、きわめて明瞭である。

 じつは保障には、お金をもらった人が助かるという、大きなプラスがある。しかし立場によっては、それはマイナスに勘定されるであろう。いわば働かなかったことに対して対価を支払うからである。こんな一見ヘンな状況は、財務省はもちろんのこと、ほとんどの人が真面目に考慮していなかったであろう。お金は労働の対価として支払われる。それがこれまでの常識だったと思う。でも今回は逆である。逆の状況が現に存在することが確認された。働かないでいてくれて、ありがとうございます、お金を差し上げましょう。理想郷ですね、これは。とはいえ、フツーの状況でも働いたら罰金、所得税ですからね。分配政策にも、それなりの理屈が通っていないわけではない。

 当たり前だと思うが、お金はもともと社会状況に結び付いている。そのお金自体の価値がフラフラする、あるいは下がることは、財務省の安定を揺るがせ、財務省の価値(あればの話だが)が下がることを意味する。資本主義下の企業も同じであろう。お金の価値が揺らぎ、下がることは、根本的にはお金を稼ぐことの価値を下げる。生産年齢の人たちが必死で働く。そこでは生産し、お金を稼ぐことが、当然の価値として前提にされている。私は八十歳を超えているから、不労働非生産年齢に属し、生産=価値には直接の関係がない。単純に生産=お金=価値と考える状況では、お金の価値が下がることは、生産という仕事に専念する人たちにとって、人生自体の価値の低下を意味する(歳をとればいやでも低下するんですけどね)。

 コロナの問題で暗黙に問われていることの一つは、それかと私は思う。歳をとれば実感するはずだが、サーヴィスを含め、生産労働で計る個人の価値は、年齢とともに下がる。高齢化社会では、その価値は全体的にも必然として低下する。元気で働く。働くのはいいことだ。私は元気ではない。元気なわけがない。年齢の割には元気かもしれないが、それでも六十代に比較したらはるかに弱った。働くという「いいこと」がこれまで通りにはできない。相模原十九人殺しの犯人なら、じゃあ死んじまえ、というであろうか。『楢山節考』の世界なら、私はおりんばあさんと道連れ、とうに雪に埋もれて消えている。それがまだ生きて、ご覧の通り太平楽のごたくを並べている。いい時代なんですよ、現代は。

 どうすればいいんだ。そう訊く人があるかもしれない。要するに価値観を情勢に応じて自分が変え、自分が持つしかない。それを自立といい、成熟という。生きるとはどういうことか、生きる価値はどこにあるか。これは哲学でも思想でもない。まさに具体的な自分の生き方である。すでに構築されたように見える社会システムに寄りかかってもいいけれど、それならそのシステムと共倒れの覚悟が必要ではないか。戦時下の日本がそうだった。一億玉砕、本土決戦でしたからね。でも多くの国民にとって、それは本音ではなかった。だから一夜明けたら平和と民主主義、世間の標語は共産主義でもなんでもいいけれど、日常が戻ってしまった。

養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『身体の文学史』『手入れという思想』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』など著書多数。

養老孟司

新潮社 新潮
2020年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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