<東北の本棚>会津の悲劇 苦難の軌跡
[レビュアー] 河北新報
戊辰戦争に敗れた会津藩は降伏後、青森県下北郡、三戸郡を中心とする地域に再興を許され「斗南(となみ)藩」となる。本著は、「義」を重んじる会津の精神を藩祖・保科正之にさかのぼってひもとき、幕末の悲劇へと続く歩みや斗南藩の窮状など、苦難の軌跡を丹念に掘り下げた労作だ。
会津出身者は「長州だけは許せない」と口をそろえる。「朝敵」の汚名を着せられ、長州藩に滅亡させられた不条理。人々は150年を経てもそれを忘れてはいない。
「大君の義、一心大切に忠勤を存すべし」。保科正之が忠義を厳命した「家訓(かきん)」は、幕末に藩主松平容保が京都守護職として尊譲激派との対峙(たいじ)を余儀なくされ、戊辰戦争に巻き込まれる要因となった。
著者は、会津藩が「朝敵」ではない証拠に、1863年の「文久政変」後、孝明天皇が容保に下した書面や和歌を挙げる。明治時代後期に刊行された書物に「憂患掃譲、朕(ちん)の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり-」の書面本文が載り、初めて公になっている。
一方で、戊辰戦争で容保が出した降伏状には「王帥(おうすい)に抗敵し奉り」などの文言があった。著者は「身に覚えのない『朝敵』の罪を認めざるを得なかった容保の心中いかに。断腸の思い、でも足るまい」と記す。
斗南藩には、約1万7000人が移住。生活は過酷を極めたが、教育藩でもあった会津の出である斗南士族と子孫たちは、あらゆる分野で活躍し、青森県の礎を築いた。「青森県そのものが斗南藩の遺産と言っていい」。著者の言葉が印象的だ。
著者は東奥日報社特別論説編集委員。2017年から19年にかけて、東奥日報土曜朝刊に掲載された連載企画をまとめた。
(郁)
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