半世紀にわたる登山歴から厳選した50の山をイラストと共に紹介する、沢野ひとしの名エッセイ『人生のことはすべて山に学んだ』

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半世紀にわたる登山歴から厳選した50の山をイラストと共に紹介する、沢野ひとしの名エッセイ『人生のことはすべて山に学んだ』

[レビュアー] 鈴木みき(イラストレーター)

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:鈴木 みき / イラストレーター)

 沢野さんとの出会いは雲取山でした。私が二十五、六歳の頃なので、かれこれ二十年くらい前になります。

「東京都民は二〇〇〇m超のこの山が都内にあることを誇りに思っている」と本書でも書かれているように、雲取山は東京都最高峰二〇一七mの山です。その約二十年前当時、私も都民でしたが沢野さんと登ることになるまでこの山の存在を知りませんでした。都内の山ではせいぜい高尾山の名前を聞いたことがあるくらい。そんな山の初心者がなぜ沢野さんと山で出会うことになったかというと、『ヤマケイJOY』という雑誌の撮影がキッカケでした。山登りに興味が芽生えた私は、無知をいいことに山の専門誌に「登らせてほしい」と嘆願書を送り、それがたまたま採用されて初仕事が「ワニ眼の画伯・沢野ひとしが歩く残雪の雲取山三日間」の同行者だったのです。実はそれまで知らなかったのは雲取山だけでなく「沢野ひとし」もでした。いま思えば色々と失礼だったと思いますが、山に行ける喜びと緊張で舞い上がっていた私を沢野さんは「君は楽しそうだね」とくすくすと笑っていました。当然ながら山のことに詳しく、登山道をガイドのように先導してもらったのを覚えています。しかし大半はボソボソと意味のわからない冗談を言って編集者とカメラマンを困らせていました。

 撮影が無事に終了し、帰りの中央線では私もすっかり打ち解け、雲取山荘の(前)主人、新井信太郎さんが頭に巻いているタオルの中身はなんだろう、夢か、バイオトイレかと、どうでもいい話をどうでもいいように膨らませたりし、ふたりでニヒヒ、ニヒヒと肩を揺すりながら話したのが楽しい思い出です。帰り際だったか「今度、事務所に遊びに来なさい」と言ってもらい、その後は近所だったこともあって週一、二回くらいは事務所に行って、事務員をしていた富士子ちゃんにしょっちゅうお茶を飲ませてもらっていました。そのときのアトリエの雰囲気や画材の匂いが好きだったんですよね。たまに飄々とやってきて仕事もせずに楽器をいじり帰ってしまう沢野さんは不思議な職業だなと思っていました。でもそんな気ままなスタイルにほのかな憧れを抱いていて、その一連の行動が見たくて事務所に通っていたのかもしれません。その頃将来に迷っていたフリーターの私に「鈴木さんは面白いから何か自分でやってみればいい」と言ってくださったのは沢野さんでした。めぐりめぐって現在イラストレーターと名乗って仕事をするようになったのは沢野さんの影響がなかったといったら嘘になります。不本意ですが私も「へたうま」と評されるので、そのあたりも「師匠」と叫んでもいいんじゃないかと、こちらは勝手に思っていますけど。怒られるかな。

半世紀にわたる登山歴から厳選した50の山をイラストと共に紹介する、沢野ひと...
半世紀にわたる登山歴から厳選した50の山をイラストと共に紹介する、沢野ひと…

 思い出話で本の解説がすっ飛んでしまいそうなのでそろそろ。

 本書『人生のことはすべて山に学んだ』は二〇一五年に海竜社から出版され、今回はその文庫化です。私は単行本のときにすでに読んでいて、この解説を書くために再読したのですが、五年ぶりに読んでも面白かった! 挿絵や4コマ劇場はもちろんのこと、どこから読んでも楽しめるので山に行くときにザックに忍ばせるのにピッタリ。その日登った山の頁をテントのなかで読むなんて最高のひとときですからね。昔から文庫本と登山は相性がいいのでこういった山の本の文庫化は嬉しいことです。

 頁をめくると北から南下するようにひとつの山にひとつのストーリーが並んでいます。エピソードは小学生時代から孫と遊ぶ今に至るまで時間が違和感なく行き交います。同じように山名で区切られ、その山のことが書かれている名著に『日本百名山』や『花の百名山』などがありますが、どれも私の世代からは遠い時代を感じ、登山者として共感するというよりも懐古趣味やその時代のことを知るという側面が大きい気がします。沢野さんも私からすると「登山」の大先輩ですが、まだ一緒に山を登れる先輩です。そのおかげで描かれている登山の様子を身近に感じることができます。とはいえ、「谷川岳」では魔の一ノ倉沢をクライミングし、残雪の「屏風岩」を攀じり、「白神岳」「甲武信ヶ岳」「巻機山」などでは沢を遡行、「後方羊蹄山」ではバックカントリースキーと、登山道を外れるバリエーションルートも多い。それもこれも「同じ登山」のように書けるのは、沢野さん世代の登山者が「山ヤ」と呼ばれ、「一般的な登山」も「岩」も「沢」も「雪」も分け隔てなくできる人が少なくないからでしょう。次世代になる私たちは、山で何かあると社会的問題にまで発展しやすくなったためか、登山道を外れるのを見て見ぬフリをしてくれる風潮が薄れ、登山の自由さが奪われていると感じます。私は「山ヤ世代」の大きな背中を見ながら登山をはじめたので、沢野さんたちの登山がとても眩しい。適当なところで寝転がったり、ずぶ濡れで歩いたり、そんなことが今は羨ましいなと思うんです。

 沢野さんと山は何度か行き、いろいろ教えてもらいました。最初にロープを繋いで岩登りを体験させてくれたのも沢野さんでした。山での沢野さんは案外テキパキとしていた印象があります。出発の準備が私なんかはとくに遅いほうだったので、思い出すのは長身を縮めてイライラしながらタバコを吸っている姿ですね。なんだかそれも「山ヤ」っぽくて眩しいなぁ。

 私が登山をはじめて約二十年の間に、登山の装備もスタイルもずいぶん変わりました。例えば本書に登場する山の道具でいうと「ランタン」「ポリタンク」はもう使うことがありません。オイルかガスを燃料にした「ランタン」は、電池や充電式のLEDライトになり、水を汲む「ポリタンク」は小さく折り畳める丈夫な袋状の水筒になりました。「山ヤ世代」の共同装備を分担して持ち、仲間と同じテントで寝て、同じ釜の飯を食うという登山スタイルが減ったからでしょう。「ガスストーブ」も「テント」も二十年前に比べたら格段に小型軽量化し、沢野さんお気に入り食材の生キャベツや玉ねぎ、鮭のちゃんちゃん焼きやつみれ鍋を作るための大鍋を担ぎ上げる登山者を学生山岳部の合宿以外では見かけません。いまでは種類豊富になったフリーズドライ食品やレトルトを利用して自分の分だけを小分けし軽量化に努めています。その一方では「山ごはん」を作るために山に行く登山もちょっとしたブームです。「大雪山」に登場する「爆弾」や「霞沢岳」の「ぺミカン」は新しい登山者が知ったら真似したくなるメニューではないでしょうか。「食」という部分ではもしかすると「山ヤ世代」に戻っている可能性があります。おいしいものを食べたいという胃袋の欲求は今も昔も変わらないですからね。

 このように登山はより個人的なものになり、楽しみ方も「登頂」だけにとどまらず「プラスアルファ」の趣味やこだわりを持つスタイルが主流になったといえるでしょう。

 私は「山ヤ世代」と今から十年ほど前に若い女性を中心に巻き起こった登山ブームで生まれた「山ガール世代」との狭間の不毛な世代なので、その変遷を見られたことはラッキーだと思っています。装備の進化や登山スタイルの多様化は歓迎できることだとは思いますが、どんどん登山道もよくなり、山小屋のサービスが向上し、以前より私たち登山者がずいぶん甘やかされてきていることには少し不安があります。不便だったがゆえに命がけな「山ヤ世代」の山行を読むと、胸がチクッと痛くなるのはなぜでしょう。進化に迎合しノホホンと登山しているのが恥ずかしくなるのでしょうか。過去を見捨てて思えば遠くへきたもんだと気づいてしまうからなんでしょうか。

「山ってこれでいいんだよな……」本書を読み終わってそんなことを考えてしまいました。なんだか不思議と原点回帰して重い荷を背負って仲間と泥臭い登山をしたくなってきました。そういう登山ってむしろロマンチックなんですよね。思い返せば、沢野さんと行った山ではいつもランタンのシューッという音がしていたっけ。あれけっこうロマンチックだったのかも。あのときはうるさいと思っていたけど。私も年だな。

 最後にまた思い出話になりますが、本書で唯一(登場はしませんが)一緒にいた山があります。「涸沢岳」です。沢野さんから友人の捜索で涸沢岳西尾根に入るから炊き出し部隊として来ないかと声がかかり向かった山です。本編にもある「カメラが見つかった日」がそのときの捜索です。事故があってから時間が経っていたので現場は穏やかでしたが、それまでなにひとつ遺留品が見つかっていなかったのにカメラマンの命のようなカメラが出てきたのですから急に騒然となりました。ご遺族は淡い希望が消えた瞬間でもあり複雑だったと思いますが、その夜にみんながひどく酔っぱらって故人の話で盛り上がっていたのが忘れられません。このときの経験から仲間の大切さや山の厳しさ、悲しさを教わったと思っています。沢野さんは息子がカメラを発見したことがよほど誇らしかったのか、その晩から帰りの車までずっと自慢し続けていました。

 こうして書いてみると、本当に人生の恩人なんだなと。私は「人生のことはだいたいワニ眼に学んだ」のかもしれない。いや、それは困る。

 思い出を振り返るばかりで解説になっているかは自信がないけれど、こんなふうに沢野さんとのことを書く機会をいただいてよかった。感謝します。

 沢野さん、また久々に山でも行きましょう。お礼はそのときに直接言います。

▼沢野ひとし『人生のことはすべて山に学んだ』詳細ページ(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000250/

KADOKAWA カドブン
2020年10月13日 公開 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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