『暗闇にレンズ』
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光に向かって祈る小説
[レビュアー] 水上文(文筆家)
第一六三回芥川賞を受賞した前作『首里の馬』で高山羽根子が描き出したのは、端的に言えばアーカイヴの問題であった。『首里の馬』の中で主人公は記録すること、保管することそのものに誇りを抱き、祈りを込めていたのだった。全世界の真実と接続するように、と。
そして『首里の馬』後の長編第一昨である本作『暗闇にレンズ』でも、同じ問題意識が引き継がれている。祈りが込められている。けれども、もしかしたらそれは『首里の馬』よりも困難かもしれない。何しろ本作において光を当てられるのは、「暴力」の問題なのだから。
『暗闇にレンズ』では、異なる時代の異なる人々の物語が断片的に語られている。
監視カメラだらけの近未来と思しき時代における高校生の「私」と親友の「彼女」の物語が語られたかと思えば、明治の港町が語られる。映写機の伝来が語られ、映画や映像にまつわる虚構の歴史が構築されていくと同時に、「私」と親友の「彼女」の短い会話、馴れ初めが入り混じる。与えられる物語の切れ端は、読み進めるうちにだんだんと像を結んでいき、読者はやがてそれが「レンズ」をめぐる虚構の歴史と、「レンズ」を覗き込み続けた、とある女四代の系譜を描き出していることに気づく。
だが、そこで語られる歴史と系譜は穏やかなものではない。
アーカイヴ─瞬間を切り取って再現前化すること、保管すること、人々と経験を共有し、コミュニケートすること─は、いともたやすく暴力になり得るのだと、『暗闇にレンズ』は語っている。
たとえば「レンズ」によって世界を切り取り映し出してみせる技術は幾度となく暴力的に用いられ、「兵器」となり、弾圧の道具、洗脳の手段、楽しげなアニメーションさえもがトラウマティックな記憶のトリガーとなる。戦争に使われた兵器としての映像は、ある者の目を焼き、見る者を狂わせる。「レンズ」を覗き込む女たちは困難を抱え込み、歴史に翻弄されている。瞬間を切り取り保管することは麗しいこととは限らないし、それを行う人を世界が常に大手を振って歓迎するとは限らない。「レンズ」を覗き込んだ先にあるのはこの上なく陰惨な光景かもしれない。本作は決してアーカイヴを可能にする「レンズ」を単純に祝福しない。それは常に暴力になり得るからだ。
けれども、いや、だからこそ、『暗闇にレンズ』は常に暴力になり得る「レンズ」の別の側面を見出そうとする。歴史的に「見られる側」であった女性たちにレンズを覗き込む役割を与え、「レンズ」の暴力に反抗を試みる。彼女たちはタフである。「レンズ」の暴力を知りながら、なおもそれを覗き込む。暴力になり得る「レンズ」が希望の祈りに変わる瞬間を捉えようとするのだ。まるで光に向かって祈るみたいに。