絵画「ひまわり」の作者・ゴッホが残した手紙 その私的な言葉に画家の平松麻は何を感じたのか?

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ゴッホの絵はテオに向ける言葉に守られた

[レビュアー] 平松麻(画家)

平松麻・評「ゴッホの絵はテオに向ける言葉に守られた」

オランダのポスト印象派の画家「ファン・ゴッホ」が書いた現存する903通の手紙の中からファン・ゴッホ美術館の研究者が265通を精選し、手紙に描かれたスケッチも全点収録した『ファン・ゴッホの手紙 I・II』が刊行。本作について、絵画制作を中心に活動しながら、村上春樹や穂村弘作品の挿画でも注目を集める平松麻さんが、画家として感じたことを綴った。

 ***

 わたしも画家だ。

 これが理由で、今に至るまでゴッホの書簡集を開いてこなかった。ゴッホが描いた絵の前に立てば、それ以上何があろう、なんて思っていた。ゴッホが観てほしいと望んだ絵の前に出かけて、絵が語りはじめるまで静かに待ってみたい、とだけ思っていた。

 たいていの画家は、自作を饒舌に語ることをしない。なぜなら、いい絵というのは言葉が生まれる前にすでに仕上がっているからである。絵の深奥をあらわす言葉を、じつのところ画家本人は持ち合わせていないはずなのだ。それなのに、そうですねえ、あえて言うならば……なんて、言葉のシールを絵にペタペタ貼ってしまえば、絵が軟弱になりかねない。絵と言葉の距離関係は、画家にとって過敏でいていいことだと思う。

 しかし、だ。ゴッホがしたためた膨大な数の手紙には、絵に捧げた心身の希望から絶望まで、ぜんぶがあけすけに綴られている。「絵」をとらえようとする探求のプロセスを、執拗に伝える。絵のために健やかでありたいだけなのに、引き起こしてしまうみじめな行いや、金欠による苛立ちや、情けない恋愛事情まで、ペンが止まらない。その数、現存するだけでも800通あまり。手紙魔……! そのうち約650通が弟のテオに向けたものだった。テオ以外の何人にも読まれないはずだった無装飾の言葉たちは、ゴッホの絵画作品とはべつに何をわたしたちに教えてくれるのだろうか。

 絵とは? この壮大な問いに、ゴッホの手紙が語り始める。

 手かげんなく芸術に身を投じる人生の使いかたに、わたしは拳をグッと握り、仕事部屋に貼ったゴッホの自画像と眼線を突きあわせる。

 芸術という巨大な渦の実在を、ゴッホが人生をかけて知らせてくれる。

「芸術への愛は本当の愛を失わせる。これは恐ろしく的を射た言葉だと思う。しかしその反対に、本当の愛は芸術への欲求を失わせる」(書簡572)という怖いこともあわせて。

 ゴッホの生涯についてはすでに周知のとおり。一八九〇年三十七歳のピストル自害に至るまでの最後たった十年間を画家として熾烈に生きた。不幸だったかもしれない。でもゴッホの手紙を読み、火傷を負い続けてもなお、絵の炎を体内に灯し続ける幸福のことを思った。

 神経過敏で憂鬱だったり怒りっぽかったりするゴッホは、ひとと付き合うことが難しかった。画商にも牧師にも伝道師にも教師にも書店員にも画学生にさえもなることができず、最後に残った唯一の道が、画家だった。とは言え、ゴッホは画家になるべくしてなったとしか言いようがない。美術学校でデッサン技術を学ばずとも、描かなければ自分でいられなくなるひとは、放っておいても結局絵を描き始めるものだから。

 かく言うわたし自身も、美術学校に行くことを選ばず、二十九歳という遅さで本格的にカンヴァスに絵を描き始めた。ちょうど十年が経とうとしている。わたしも画家だ、と言えるようになった。

「どうすればいいかはわからなくてもやってみたいんだ。どのように描けばいいのか、それは僕自身わからない。白い板をたずさえて僕をとらえた光景の前で座る。目の前にあるものを描く。自分にこう言い聞かせる。この白い板が何ものかにならないといけない、と。(中略)あのすばらしい自然があまりに心を捉えていて、とうてい自分の描いたものに満足などできない。それでも、僕の作品には、僕の心を捉えたものへの反響が見える」(260)

 画家の心をとらえるのはすなわち「輪郭ではなく量塊」(558)だ。

「輪郭線で捉えるのではなく、真ん中から捉える」(559)ことに気づき――どんな絵でもいい――いちどでもこのゴッホが言う「量塊」や「真ん中」が、みずからの手によってカンヴァスに出現したならば、絵は何かが宿る場所だと思い知ることになる。それは、稲妻さながらの閃光がピカリとアトリエを満たす瞬間。この制作という螺旋運動がスタートするときを絶対に見逃してはならず、意欲とパッションをもって自分をそこにドサッと放り込む。それさえできれば、芸術の環のなかで空しい思いをすることもきっとないし、天涯孤独になることも、きっとない。

 わたしにとって初めての油彩タブローには「焼却炉」という名をつけた。自画像として景色を描いた。同時進行させた絵はなくて、この一枚だけを一年間かけてチマチマコツコツ描いた。描きあげたい景色を表現するのは油絵具でしかない、という安定した頑さがあったが、技術はどうでもよかった。どうしても描いてみたい景色が、じぶんにもあることが嬉しかった。それはこんな景色だった。

 荒涼と渇いた土地で、一機の焼却炉が黒塊を燃している。煙突からモクモクと白煙がたちのぼる。白煙は空に滲み消えることなく、雲みたいな塊になって、煙突から離れず空中に滞留する――。

 描けたかもしれないと思ったとき、焼却炉が稼動しているのを、絵のなかでまちがいなく見た。誰も燃料を投げ入れないのに、焼却炉が黒塊を白煙に昇華させ続けていたのだ。焼却炉の意志で。絵は動くんだと知った。

 この絵を描いている間じゅう、輪郭は一度も現れなかった。空を「真ん中」から捉えれば自然と地が表れたし、黒塊を「真ん中」から捉えれば自然と白煙が発生した。この繰り返しが絵の道すじなのだろう。

 ゴッホの心をとらえる「量塊」や「真ん中」とは、呼びかけてくる気配の実在感だ。

「そう、僕が描きたかったのは、作業着を身につけ赤い旗を持った踏切番が『なんだか物悲しいな、今日は』と思った時に見たり感じたりしていた、そんなふうに思えるような光景だ」(252)

「僕がここで伝えたいと思ったのは、ランプの下でジャガイモを食べる人たちが、皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだということだ。つまりこの絵は手の労働を語っているのであり、彼らが自分たちの食べるものをいかに誠実に稼いだかを伝えている。(中略)農民画にベーコンや煙やジャガイモの湯気の匂いがしたら、それでいい。不健全ではない。家畜小屋に糞の匂いがしたら、それでいい」(497)

 眼に見えにくい空気や匂いをキャッチする術を、学校は教えてくれない。むしろ、教わっていたら素通りしてしまいかねない!

 絵の種をつかむために、見えるものであっても見えないものであっても、現実として凝視してみることが大切なんじゃないだろうか。そうすればモティーフがピカピカと視界のなかで点灯しはじめる。

 それに心を向けずには生活できないほどになる。画家にとってモティーフは命だ。モティーフとともに生きていれば、いつのまにか描くべきことがやってきて、あっという間に絵具が絞り出され、筆が勢いづいている。モティーフを得た画家は、同じ主題を何度も何度も全方位から描く。いつのまにか人生をかけてしまって、没頭してしまっていたら、それ以上なにが必要だろう。

 ゴッホの手紙はわたしたちにとって読みものではなく、弟テオへ向けた語りだったことをいまいちど思い出したい。

 ゴッホはテオなしでは到底生きていけなかった。腹心の親友として、兄弟として、決して壊れない絆として。テオは、パトロンとして九年間にわたって自身の給料を分け与えた。ゴッホが絵でとらえたいことを一緒に信じてくれる、本当にたったひとりの存在だった。

 ゴッホの、桁はずれに強靭な不屈の精神と芸術観を捨てない信念が、万感胸にせまるが、並んで、ゴッホを絶対に諦めないテオの愛にも感服させられる。

 彼ら兄弟は依存しあっていた。内の世界へ探検しにいくゴッホと、外の世界を調査しにいくテオ。かたく握手した手を離さず、交感し、お互いの眼となり心となる役割をそれぞれが果たした。

「僕らはたくさん描いて生産的になろう。そして欠点も品性も備えた僕ら自身でいるようにしよう。僕ら、と言ったのは、君は苦労して僕のために金を工面してくれているのだから、僕の作品に何か良いものがあったとしたら、その半分は君自身が創り出したものだとみなす権利があるから」(492)

 ゴッホが晩年期に到達した油絵は、補色(色相環で反対の位置にある色同士)で効果的に構成されている。これがゴッホとテオに見えて仕方ない。たとえば黄/紫のように真反対の色は、お互いが在るからこそ双方が引き立つ。黄は紫と一緒にいて、さらに黄になる。真逆のようでいて共同体。ゴッホが自害したわずか半年後に、テオが病気によって逝去したことを思いながらゴッホの色彩を眺めると、絵という場所が尊くてたまらなくなる。

 テオがゴッホを信じ続けられたのは、まさしく手紙のおかげだ。油絵やデッサンだけが無言のままテオに届いていたとしたら、きっとわたしたちはゴッホの絵に出会えなかった。こんなことを言ったらゴッホが怒るような気もするけれど、ゴッホの絵はテオに向ける言葉に守られた。画家の本気を理解するにはじゅうぶんすぎる言葉が綴られていたし、なぜこのモティーフでありこの色彩なのか、といった作品を他者に伝えていくための情報も細かに書かれている。

 美術品は作家を亡くした後、独歩で芸術の荒波に立ち向かう。そのときに、作家が残した言葉は、荒波を越えてゆくためのオールになることを知った。絵にとって言葉はリスクなんかではなく、味方だということを。

「もし僕が成功できなくても、僕がやってきた仕事は誰かに受け継がれていくと思う。直接ではないにせよ。(中略)人の一生は麦の一生のようなものだとつくづく感じている。地面に種がまかれて芽が出たらどうなるか。やがて麦は挽かれてパンになる」(805)

 いつなんどきも、先人の轍に救われる。

 絵の門は、芸術の世界は、どこにあるのか途方に暮れる。それでも不思議と大丈夫なんだと確信できるのは、ゴッホとテオのあいだに存在した手紙という語りが、ゴッホの絵の「真ん中」に辿り着かせてくれるからだ。

 六年の歳月をかけて、265通にわたるゴッホの言葉を引き受けられた圀府寺司さんの偉業に、心服する。オランダの田舎で生まれ、一生を苛烈に費やしたある画家の見ていた景を、日本語で知ることができるのは、奇跡的なことだと思う。

新潮社 波
2021年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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