種を超えて繋がりうる絆

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種を超えて繋がりうる絆

[レビュアー] 菊水健史(動物行動学者)

「死を悼み、不公平をきらい、喜びをわかちあう」――それはヒトがヒトの心を獲得したときから始まるのだろうか。その問いは、進化生物学という学問を打ち立てたチャールズ・ダーウィンのころからの、長年の議論の的(まと)である。

 ダーウィンは、「ヒトは動物と同じ起源から生じた動物種である。動物には多くの共通の機能が存在し、その機能は生息する環境の選択圧を受けて進化していく、ヒトはその一産物である」 と唱えた。そしてそれは当時の生物学の考え方に対する挑戦状でもあった。そのため彼は生物学の異端児として扱われ、苦悩していたという。

 ダーウィンの興味の一つは「行動」であり、動物の行動の背景に心の存在を見出していた。つまり、動物にもヒトと同様の心が存在するという考え方だ。猛烈な批判を浴びたダーウィン進化論であったが、生命科学が発展するにつれ、ダーウィン進化論は次々と証明されるに至った。しかし、未だに、ヒトの心を動物のそれと大きく区別し、異なるものとして扱う風潮は、現代科学の中ですらもまだ根強く残っている。

〈動物の感情の深さを疑う学者は誰であれ犬を飼うべきだ〉と、本書の著者であり、世界的に著名な霊長類学者のフランス・ドゥ・ヴァールはいう。筆者は幾度か彼と会う機会に恵まれ、お酒を交わしながらこうした話題に花を咲かせた。

 イヌは最も古い家畜で、ヒトと共進化を遂げたとも言われる動物である。筆者らの共同研究チームはイヌとヒトが絆ホルモンであるオキシトシンを分泌し、両者の間に絆が形成されることを見出した。ドゥ・ヴァール博士から「イヌのもつ、ヒトとつながる能力の素晴らしさに感銘を受けた」とお褒めの言葉をもらえたことは、忘れられない思い出となっている。

 彼は研究人生を通じて動物の行動、特に長年寄り添ってきたチンパンジーの行動をくまなく、それもその動物の群れの中に限らず、ヒトとの関わり方まで含めて、観察してきた。そしてその鋭い洞察力をもって動物の社会、とりわけチンパンジーの社会を解き明かしていった。野生環境下での観察にとどまらず、実験室でその機能を実証する手続きをとったところが、これまでの動物行動学と一線を画す。ドゥ・ヴァールは、チンパンジーにも他者と共感し、いたわる心があること、公平性のような道徳の起源があることを次々と明らかにしていった。その功績は、新たなヒトの心の成り立ちの概念を確立したと言ってもいいだろう。

 彼のこれまでの研究成果から得られた知見と主張に、常識とユーモアを織り交ぜた本書『ママ、最後の抱擁』は、専門家のみならず、一般読者の日常を彩り豊かにしてくれる。フサオマキザルの公平感、なんと隣の一頭がぶどうをもらうと、それを見たフサオマキザルは不平不満をぶつける。ラットは閉じ込められた仲間を救出し、プレーリーハタネズミは、傷ついた仲間を癒す。ラットは笑い、その笑いは他者との親和関係を促す。すべてが科学的検証を経て見いだされた真実である。他の動物から、ヒトが学ぶべきことはたくさんある。

 本書は、「ママ」という名の老いたメスのチンパンジーと、オランダの生物学者ヤン・ファン・ホーフ博士の再会の場面から始まる。その時、ママは死の床にいた。関節炎で足が不自由で、食べ物も飲み物も拒み、老衰で最期にむけてただ息をしていた。ホーフ博士は、長いこと研究人生を共にしたママに別れを告げに来たのだ。最初、ママは博士に気づかないようであったが、彼がそこにいることに気づいたとき、紛れもない再会の歓喜がもたらされた 。彼女は恍惚とした笑みを浮かべながら喜びの声を上げ、訪問者の頭に手を伸ばし、彼の髪を撫でた。彼は彼女の顔を愛撫し、彼女は彼の首に彼女の腕を巻きつけ、彼を引き寄せた……。

 この動画(www.youtube.com/watch?v=INa-oOAexno )を見るものは、動物にも愛や絆が存在し、そしてそれは時に種を超えて繋がりうるものだと理解するだろう。それはヒトも動物と同じ情動をもち、その情動が共鳴する能力を有しているからにほかならない。

 ドゥ・ヴァールはいう。「情動は、私たちにとって何がベストかを確実にするための身体のありかた」なのだと。情動と身体は不可分であり、情動は身体を通して成り立ち、そして情動が身体のあり方を支える。そしてこの機能はヒトと動物で共通なのだ。動物がもつ心的機能の解明は、いつしかヒトの起源やヒト社会の成り立ちの生物学的背景にも光を当ててくれるはずだ。

 折しも2020年はアメリカ大統領選挙があり、ドナルド・トランプ氏が苦戦を強いられた。彼の取ってきた行動が社会にどのように受け止められてきたのかを動物行動学的に解説する第五章「権力への意志」は、科学的かつウィットに富んだ視点で綴られている。これからのアメリカが目指す、共生社会はどのようなものになっていくのだろうか。それはヒトという動物が獲得してきた協力や共生能力を不断に活かして行かなければならないだろう。

〈人間は他者の情動状態にも共鳴するように進化し、ついには他者に起こっていることをおもに体を通して自分の中に取り込むまでになった。これは社会的つながりの最善のかたちであり、あらゆる動物社会と人間社会の中で接着剤の役割を果たし、仲間どうしが支え合い、慰め、励まし合うことを保証する〉

 ヒトのもつ情動の力への期待をこめ、ドゥ・ヴァールの言葉を引用して、本書の紹介としたい。

紀伊國屋書店 scripta
no.58 winter 2021 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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