本当と噓のはざまで
[レビュアー] 岡英里奈(作家)
たった一年前の日記の文章を他人が書いたように感じることがある。「作って」書いていたんじゃないか、と思うほどだ。感情を抑えた行動が求められる日々のなか、せめて日記では「本当」を大事にしようと思っていたのに、後から読むと過去の自分が嘘をついていたようでかなしい。自分の過去さえこんなに不確かなのに、他人の「伝記」を書くなんて、とてもできないと思う。
新人賞受賞後、次作が書けずにいる二十四歳の小説家、律。彼女は、一年前に亡くなった、自分と瓜二つの女性、如月百合の伝記を書くことになる。あらゆる手法で書いた伝記は作中作として挿入される。伝記と言っても、いずれも客観的ではない、律の作り話である。何かを書くとき、どれだけ他者に寄り添おうとしても、〈私〉を完全に消し去れない。他者や世界を反映して〈私〉はできていくものだが、その〈私〉を通してしか、何かを見ることはできないのだ。誰にとっても正しい過去などなく、律が百合について取材をしても、語る人によって彼女のイメージは変化する。二転三転する人物像に振り回されながら伝記を書こうとするが、やはりそれは律の創作物にしかならないのだった。
過去を捏造した律の伝記を読み、「確かにこんなことがあった気がする」、まるで「本当のお話」のようだ、と伝記執筆の依頼者である百合の妹、九鬼梗子が喜ぶと、梗子の娘は「本当のお話って何?」と鋭く律を見据える。「本当」とはなんだろう。九鬼家の人々は、律に百合を重ね、かつての百合との関係を再現しようとする。「なぜ我々は、誰かと誰かを混同してしまうのだろうか。あるいは誰かが、誰かを見誤っているのだろうか……」と律は悩む。本書の中では〈見誤る〉という言葉が度々登場する。自分の見たいように他人を見てしまうから〈見誤る〉のだ。そういう意味では、他者は、すべて〈私〉の創作物なのかもしれない。そのうえその〈私〉すら、何が「本当」かわかっていない……。
様々に変化する伝記を読むうち、そもそも、揺るがない「本当」など、ないのではないか、と思った。現実も創作物も等しく曖昧なものだ。みな、これは本当だ、と自分が実感できる何かを「本当」と信じているに過ぎない。だから、捏造された過去を「本当」のように感じたり、実際の過去を嘘だと思ったりする。
しかし、定まらないからこそ豊かなことがある。物語を書く/読むことでしか得られないものを信じることができるように。「真偽」を問わない自分の伝記の書き方について「不安定な状態に置かれなければ見えないもの、聞こえないものがあるはずだし、浮いた足を頼りなく宙に踊らせる動きそのものが書くということでもある」と律は語る。本当と嘘のはざまにいなければ、感じとれないものがある。予測不能の結末も本作の醍醐味である。小説はこんなこともできるのだ、と圧倒される希少な読書体験だった。本作を読むことでしか感じられない「本当」が、凝り固まった読者の現実を覆す。