「世界は善に満ちている」と思えない人に読んでもらいたい 哲学者が自著を語る

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本を読んだぐらいで人生は変わるのか

[レビュアー] 山本芳久


※画像はイメージ

「20歳のときにこの書物に出会わなかったならば、筆者の人生観や世界観は全く異なるものになっていた」――東京大学で哲学を教える山本芳久さんは、新著でこのように述懐しています。しかも、その書物とは、中世哲学の最高峰とされる大著『神学大全』。本当にそんな昔の哲学書を読んだぐらいで人生は変わるものなのでしょうか。山本さんの新刊『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』の「まえがき」を掲載します。

読書が人生に与える変化

 一冊の書物を読んで人生が変わる。本当にそんなことがあるだろうか。どんな書物を読んだって、ものの見方はほんの少し変わるだけであって、苦しみや悲しみや不安に満ちた人生には何の変化も生じないのではないか。

 どんなに優れた書物であっても、人間をいきなり180度変えたりはしない。変化を生じさせるとしても、ほんの少しの変化に過ぎないだろう。

 だが、ある時にある書物に出会い、その「ほんの少しの変化」が生じるか否かが、人生全体で見れば、決定的な違いをもたらすものになることもある。

 砂漠を歩いている人の歩む方向がほんの少しずれるだけで、その人はオアシスにたどり着くことができず、息絶えてしまうかもしれない。他方、ほんの少しの方向修正が生命を救うこともある。

 ものを見る角度が少し変わるだけで、見える風景はガラリと変わってくる。その意味では、ほんの少しであってもものの見方に決定的な変化を生んでくれる書物との出会いは、人生にとって極めて重要だ。


トマス・アクィナス(1225年頃 – 1274年)中世ヨーロッパを代表する神学者・哲学者。古代ギリシアの「異教徒」であるアリストテレスらが生み出した哲学を、キリスト教神学のうちに統合し、新たな知の地平を切り拓いた。主著『神学大全』は中世哲学の最高峰とされ、世界史の教科書にも必ず出てくるが、授業でその内容に触れられることはほとんどない「読まれざる名著」。

『神学大全』との出会い

 筆者にとって最も決定的であったのは、中世ヨーロッパの哲学者トマス・アクィナスの『神学大全』との出会いだ。20歳のときにこの書物に出会わなかったならば、筆者の人生観や世界観は全く異なるものになっていたであろうし、哲学研究者という職業を選んではおらず、書物を書いたりもしていなかったかもしれない。

 筆者のものの見方に決定的な変化を与え、生きる糧と張り合いを与え続けてくれているトマスの哲学について、少しでも多くの方にそのエッセンスをお伝えしたいと思い、筆者はこれまで一般向けの書物を2冊著してきた。『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会、2014年)と『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、2017年)である。

 幸いにして、どちらの書物も多くの読者に恵まれ、好意的な反応を耳にする機会もしばしばであった。だが、同時に、かなり身近な人からも、「哲学書を読み慣れない自分にとっては難解で読み通すことができなかった」という感想を受け取り、残念な思いをすることもあった。

 そのため、今回の書物では、「哲学者」と「学生」との対話という形式を採用し、「学生」の質問に「哲学者」が懇切丁寧に答えるという仕方で執筆を進めてみた。哲学書を読み慣れない読者でも読み進めていきやすいようにとの工夫である。

この世界を肯定できるか

 この形式を採用してみて驚いたのは、これまでに出した2冊の一般書よりも分かりやすく書くことができたのみではなく、「学生」の質問に誘発される仕方で、「哲学者」の口から、筆者である私自身も思いがけなかったような思考が実に豊かに導き出されてきたことである。その結果、トマスの思想のエッセンスに、これまでにない新たな角度から光を当てることができた。そのエッセンスを一言で表現したのが、「世界は善に満ちている」という本書のタイトルである。

 このタイトルを見ると、「そんなわけはないだろう」と反発を覚える人が多いかもしれない。この世界に満ちている「悪」や「悲惨」、人生と不可分とも言える「苦しみ」「悲しみ」「虚しさ」、そうしたものに目をつぶった脳天気なタイトルだと思う人もいるだろう。

 だが、本書は、むしろそのような人にこそ読んでいただきたいと思っている。すべての感情の根底に「愛」があるというトマスの感情論、そして、その背後にある「善」についての捉え方。本書を通じてそうした発想に触れていただいても、読者の人生がいきなり変わったりすることはないだろう。だが、「ほんの少しの変化」は起こりうるのではないか。そして、その「ほんの少しの変化」が、一人ひとりの読者の人生全体を肯定的な方向に導いていくための一助となればと強く願っている。

新潮社
2021年2月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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