『猫沼』
- 著者
- 笙野頼子 [著、写真]
- 出版社
- ステュディオ・パラボリカ
- ジャンル
- 文学/日本文学、小説・物語
- ISBN
- 9784902916430
- 発売日
- 2021/01/25
- 価格
- 2,200円(税込)
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溺れるほどに猫を愛する 作家の心に宿った“祈り”
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
猫好きの作家は多い。名前のまだない猫をデビュー作の主人公にした漱石、その弟子にして『彼ハ猫デアル』を書き、その主人公が失踪した嘆きを『ノラや』に綴った内田百間。現代でも南木佳士、保坂和志、町田康らがこよなき猫愛を語る。
しかし猫に溺れるとまで言えば、笙野頼子をおいてほかにない。『猫沼』という題がまずそれを示唆するが、章題としての「猫沼」は「ねこにおぼれて」と読ませている。猫のために一軒家を買った作者の、猫たちの姿を眺めながら自身の生を振り返る、半自叙伝とも言える作品だ。
猫の寿命を考えれば、当然そこには介護や看取りの問題も出てくる。病・老・死を目の当たりにしては、わがことのように苦しみ、病猫の小康状態を見ては小さな幸せを噛みしめる。それは病気がちな子を持つ親の気持ちそのものだが、しかし親子の比喩で言えば、普通は親の方が先に老・病を味わうものだ。
そのとおり、若いころから難病を抱えた作者は、まず自身の病と、そして忍び寄る老いと闘わなければならない。猫のための家のローンを払いつづける生活上の苦しみもある。論争家としての闘いもある。「私には大きな幸福はない。ただ……小さい猫幸(ねこざいわい)があちこちにあった」。
その猫が亡くなろうというときの悲しみはいかばかりか。「神はいない、いないからこそ祈る」とあるが、運命の前で、人は祈るしかない。たとえば、愛する者が大きな手術を受けるとなれば、人は自然と手術室の前の長いすに座り込んで膝に肘をつき、両手を組んで額に当てるだろう。祈りは特定の神に対するものではなく、人間の心に自然と宿るのである。
溺れるときに掴んだものが藁ならば死ぬしかない。しかし、死を前にして、せめて祈ることをするのが人間であり、しかも他者のためにも祈れるのが人間である。これほど溺愛してくれる人間を飼い主にもった猫たちの幸せは決して小さくない。