広重の浮世絵をめぐる 江戸ミステリーツアーにようこそ!

対談・鼎談

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広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密

『広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密』

著者
竹村 公太郎 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784087817003
発売日
2021/04/26
価格
2,530円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

広重の浮世絵をめぐる 江戸ミステリーツアーにようこそ!

[文] 砂田明子(編集者・ライター)

広重の浮世絵をめぐる
江戸ミステリーツアーにようこそ!

徳川家広、竹村 公太郎
徳川家広、竹村 公太郎

まもなく刊行される竹村公太郎さんの新刊『広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密』は、広重が描いた浮世絵を手掛かりに、江戸時代の政治、経済、文化、そして日本人の原点に迫る一冊です。
建設省(現・国土交通省)で、長年、河川行政に携わってきた竹村さん。「地形」という独自の視点から日本史の謎に迫り、歴史の固定観念を覆した『日本史の謎は「地形」で解ける』はベストセラーとなり、“竹村史観”を広く世に知らしめました。
今回、竹村さんが解き明かすのは江戸の謎の数々。湿地状態の広大な荒れ野だった土地を徳川幕府はいかに制し、拓き、近代へと続く巨大都市を築いたのでしょうか。本誌連載中から話題を呼んだ本作の刊行にあたり、徳川宗家十九代目の政治経済評論家、徳川家広さんをお迎えし、対談をお届けします。

竹村 公太郎
竹村 公太郎

治水から歴史が始まる

徳川 先生は長く、建設省の河川局にいらっしゃったんですね。一般の人にはなじみの少ない世界だと思いますので、そのご説明からいただけますか。

竹村 建設省に入ると各部局に自動的に振り分けられるんです。だから自分の意思ではないんですが、長年、「河川屋」をやってきました。河川屋が相手にするのは地形と気象です。川の上流の山奥にダムを建設したり、大雨が降ると増水し氾濫してしまうような川の護岸工事を計画したりするんですが、自分でつくった堤防は一つもないんです。強化し管理しているだけ。99%、江戸時代につくられているからですね。北海道は別です。北海道は近代、明治以降です。
 ですから、河川をやっている人間は、江戸時代を知らなければ何もわからない。ここが道路との大きな違いです。道路は戦後の高度経済成長期から実質スタートしているんですが、河川は、時間軸が長いんですね。

徳川 そこで今回、江戸時代を扱っていらっしゃるわけですが、御本のなかに、八代将軍・吉宗の命によって大規模な治水工事が行われたときに建てられた石碑の話が出てきます。それが〈文命東堤(ぶんめいとうてい)〉で、「文命」とは、紀元前1900年頃の中国夏(か)王朝の初代王「禹文命(うぶんめい)」のこと。治水の神様と崇められた人でした。つまり文明が始まった時点から人類は水と戦ってきたわけでして、徳川幕府も、治水から歴史が始まることを、家康の時代から意識していたと思います。

竹村 文命が言った治水の原則が三つあるんです。一に「堤防に木を植えなさい」。二に「石を盛って、堤を固めなさい」。もう一つが面白い。「お祭りをしなさい」。人を集めてわっしょいわっしょいとやって、踏み固めることで堤を強化せよと。見事です。実はこれを日本で最初にやったのは武田信玄で、洪水をよく起こしていた釡無川(かまなしがわ)の治水に着手して「信玄堤(づつみ)」という堤防をつくり、堤の手前に三社(さんじゃ)神社を建てました。これ、ほかの大名はなかなかできなかったんですよ。戦国時代は領土を整えると攻められてしまうから。

徳川 その点、武田領は内陸で高原地帯とあって、外から攻め込まれることを、あまり心配しなくてよかった。

竹村 そうでしょうね。江戸時代になると、徳川をはじめ全国の大名がそれを真似するんです。その最たるものが、幕府による吉原遊郭の移転でしょう。もともと吉原は日本橋人形町の海岸近くの葦屋町(よしやちよう)にあったのですが、1656年に、浅草寺裏の「日本堤(にほんづつみ)」への移転を命じられます。隅田川の堤防・日本堤は、二代将軍・秀忠が天下普請によって建造したもので、江戸の地形や街の発展にとって、日本堤の決壊と、それによる下町の水害被害は何としても避けたい。そのため幕府は吉原を移転して、吉原へと通う男たちの歩行で日本堤を踏み固めさせようとした、と私は考えたわけです。

徳川 4000年前に文命が言ったことを、日本人が引き継いでいる。すごいことです。ちなみに吉原の遊郭がなぜ大事だったかといえば、江戸の男たちがとりわけ好き者ぞろいだったわけではなく、男の人が多かったからです。幕府は新しい町を急激につくるために、日本中から、職人やら土工やらを集めていた。単身赴任のお侍さんも多かった。江戸は男性が多い町だった、という背景があります。

広重の浮世絵は「報道写真」

徳川 今の吉原の移転についてもそうですし、当時、江戸城の北側、東側は大湿地帯だったことなどを、広重の浮世絵から推理して解き明かしていくところが本書の面白さです。先生は広重の浮世絵を、「報道写真」だと書かれています。

竹村 広重の浮世絵には背景がきちんと描かれているんですね。たとえば葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵に比べて、背景となる川や山、橋がきちんと描き込まれているから、写真の代わりになるんです。

徳川 そうした背景に、江戸の地形が表れ出ているというわけですね。

竹村 そうです。江戸の歴史を知ろうとしたとき、私は河川屋は河川屋らしく地形から入ろうと思いましたが、江戸の文献はまず読めないし、古地図を読み解くこともできません。そこでふと思いついたのが浮世絵でした。
 以前、養老孟司さんが、「竹村君の文章はフェアだ」と言ってくださったんです。対談のときだったか、書評だったか忘れましたが、私の文章は浮世絵といった、誰でも目にできて、誰でもわかる資料からスタートし、仮説を展開しているから、誰でも反論できる。途中で難しい文献が出てくることもない。そういう意味でフェアだという言い方をされました。そういうこともあって、浮世絵からスタートしたのはよかったと思っています。

徳川 そしてそれができるのは、徳川家康という人が、自分が何を考えていたのかをほとんど語ってないからだ、と書かれています。その通りだと思いました。

竹村 そうなんです。何も言ってない。だから私たちは自由に推理して、ディスカッションできるんですよね。

徳川 はい。有名な『東照公御遺訓』も、家康はこういうことを考えていただろうと、後の人が想像して残したものです。

竹村 不思議なんですよね。信長も秀吉も、断片的ですが残っているのに、家康は残っていない。

徳川 私はあえて残さなかったと思っています。というのは、実は、徳川幕府は少数与党なんです。豊臣ファンが圧倒的に多い時代だった。そのなかで人を従わせるためには、ものすごく怖がらせなければいけない。威嚇によるガバナンスが必要だったんだろうと考えています。
 ですが、一つだけ、本人の思いがこもっているものがある。それが「日本橋(にほんばし)」です。あれは、日本橋川をわざわざ掘って、その上に架けた橋ですから、本来は要らない橋です。それを五街道の起点にすると家康は言いました。1604年のことですから、奥州街道や日光街道は、まだほとんどないに等しく、当然、日光東照宮はありません。江戸自体が田舎です。その時点で家康は、日本の人口を関東に集める決意を表明したと私は見ています。家康は秀吉に左遷されてやってきた関東で、大坂や京都より大きな町をつくろうと最初から考えていたと。そして先生のこの御本は、広重が描いた日本橋から始まります。

「小名木川は塩の道ではない」
新説はどのように生まれたか

竹村 徳川さんのお話、よくわかります。私も家康には大きな国土開発プランがあったと思っているんです。家康は鷹狩が趣味で、江戸入り後、1000回以上も鷹狩をしたと伝えられています。武蔵野台地から多摩川、横浜、三浦半島、群馬、房総半島まで広く歩き回っていますが、鷹狩というのは名目で、実質的には地形調査でした。関東の地形を調査して行ったのが「小名木川(おなぎがわ)」の開発であり、利根川(とねがわ)の流れを変えた「利根川東遷事業」です。

徳川 小名木川運河は、江戸入りした家康が最初につくったインフラですね。先生の新説、面白かったです。

竹村 小名木川運河は行徳(ぎょうとく)(千葉県)の塩を江戸城に運ぶために開発された塩の道である、というのが定説ですが、私は疑問でした。実際、行徳塩田から塩を運搬する水路として使われた事実はあるんですが、それは主に江戸中期以降なんです。家康は江戸に入ってすぐ、開発を行っていますよね。塩が必要なら、地元の岡崎(愛知県)にいっぱいあるだろうと。吉良(きら)家が開発した矢作川(やはぎがわ)の塩田ですね。それなのにわざわざ、小名木川をつくるだろうか。これは砂浜のなかに人工の川=運河をつくっているのですが、地形的に考えて、塩のためにそこまでする必要はなかったはずです。では何のためだったかといえば、真の目的は、軍事用高速水路だっただろうと思い至りました。

徳川 兵士運搬用の軍事用アウトバーンだった、と書かれているのを読んで、非常に納得すると同時に、第一次世界大戦時のドイツを思い出しました。ドイツは鉄道輸送が発達していたために兵士を前線に速く送り込むことができ、フランスとロシアを同時に相手にする二正面作戦でありながら、敵兵を一歩も国内に入れずに戦い続けることができた。家康はといえば、関東に移された時から小田原北条氏の最期を教訓に、包囲されても負けない体制を築くことを急いだのだと思います。

竹村 そうです。アウトバーンだというのは僕の仮説ですけどね。歴史家の方は誰も言っていない一つの仮説です。

徳川 小名木川をつくったのとほぼ同時期に、家康が大坂から、自分に忠実な漁師一族(摂津国西成郡佃村(つくだむら)の森孫右衛門(もりまごえもん)一族)を江戸に呼び寄せたというのも、ああ、なるほどなと。つまり彼らは機動部隊だったわけですね。

竹村 そう。戦国時代、漁師は船を護衛する水軍の役目も果たしていたんです。船で兵士を運ぶ際、その船頭が裏切り者だったら命とりになるわけで、家康が有能な水軍集団を大坂から連れてきたのは当然のこと。この史実も、小名木川がアウトバーンだったことの傍証になります。
 私の本で、従来の説に異をとなえた大きなものは、この小名木川と、それから忠臣蔵ですね。赤穂浪士(あこうろうし)討ち入り事件は徳川幕府による復讐劇だったということを、『日本史の謎は「地形」で解ける』に書きました。

江戸は日本全体の
共有財産になった

徳川 先生の御本を読むと、日本の近代社会の基礎は、江戸時代に形成されたことがよくわかります。

竹村 意外とみなさん知らないんですよね。明治時代につくられたとか、あるいは昔から連続的にあるように思っている方もいるんだけれど。

徳川 日本史の分岐点を考えると、明治維新よりも、江戸時代のほうが、変化の度合いは大きいと私も思います。

竹村 家康は江戸幕府をひらくと、諸大名を全国各地の河川流域のなかに封じこめた。外に膨張するエネルギーを封じこめられた大名と領民たちは、内なる流域開発に力を注ぐことになったんですね。

徳川 これは、日本史のなかの江戸時代の位置づけに関わる重要な点だと思います。日本は建国以来、皇室と藤原氏に連なる、ごく少数の超名族が政治を動かしてきた。この血統主義は、戦国になって下剋上が進むことで崩れていき、豊臣秀吉の登場で完全に崩壊してしまった。江戸時代といえば身分制が連想されるんですが、これは秀吉によって「日本人、みな平等」ということが証明された後だから、制度として作り直さなければならなかったことの表れなんです。そして下剋上の再来を防ぐために、インフラ整備による生産力の向上を目指した。暮らしがよくなれば、乱世待望論も収まるだろうというわけです。

竹村 なるほどね。日本社会は、安土桃山と江戸時代ではガラッと変わったんですね。

徳川 家康にとって、朝鮮出兵の再開を望む声も、警戒しなくてはならなかった。豊臣家を滅ぼしたあと、家康が幕府をひらくのにいちばんいい土地は、大坂だったはずなんです。それが新開地である江戸にこだわった理由は、日本軍が強いという強烈な印象を兵士レベルで残した朝鮮出兵の記憶から国民を引き離すためだったと私は考えています。下剋上と、外へ打って出ようとする動き。この二つを封じこめるための江戸の町だったと思います。

竹村 そうですね。そして明治とのつながりという点で重要になってくるのが、日本人のアイデンティティの問題です。江戸幕府は江戸城や虎ノ門のダムなどを、手伝普請でつくりましたよね。江戸に来て工事に従事した人は、江戸はこんなにいいところだよ、という話を国に持って帰る。江戸の情報は全国に広がり、子供、またその子供へと受け継がれ、江戸はいわば、日本全体の共有財産になっていったんだろうと。

徳川 生身の人間が最強のメディアだと書かれていて、印象に残りました。

竹村 まさにそうなんです。そこで江戸の情報を運ぶのに役立ったのが、徳川が重視した水運ネットワークでした。全国に張り巡らされた水運ネットワークが人を運び、江戸で流行(はや)っているものを文字や絵にした瓦版や浮世絵を運搬していく。江戸で火事が起きたらしいとか、赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったらしいとかですね。そうやって日本全国で同じ情報を共有することで、同時代に生きる日本人の一体感が生まれていったんだろうと思います。

徳川 瓦版が読めたのは、参勤交代があったことで、日本に共通言語があったからだということも書かれています。

竹村 そう。明治に入り、江戸が東京に変わると一気に人口が増え、日本は急速に近代化を遂げるわけですが、それができたのは日本人に共通のアイデンティティがあり、共通言語を理解するというインフラがあったからだと思っています。

徳川家広
徳川家広

徳川 実は、明治維新に隠されている幕府側のささやかで重要な勝利というものがありまして、それは、天皇陛下が江戸(東京)に移ってこられたことです。歴代の天皇陛下が詠まれた歌のなかで、富士山を詠んだものは明治天皇のそれが初めてなんです。天皇が住まわれるようになって、名実ともに江戸(東京)は日本の首都になりました。今日はあらためて江戸がよくわかるお話をありがとうございました。

竹村 公太郎
たけむら・こうたろう
1945年神奈川県生まれ。東北大学工学部土木工学科修士課程修了後、建設省(現・国土交通省)入省。おもにダム・河川事業を担当し、近畿地方建設局長、河川局長などを歴任。2002年に退官後、リバーフロント研究所代表理事を経て、現在は日本水フォーラム代表理事。2017年から福島水力発電促進会議座長も務める。著書に『日本史の謎は「地形」で解ける』シリーズ、『本質を見抜く力』(養老孟司氏と共著)等多数。

徳川家広
とくがわ・いえひろ
1965年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。米ミシガン大で経済学修士号、コロンビア大で政治学修士号取得。徳川宗家19代目にあたる。政治経済評論家、翻訳家、作家。訳書に『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』『混乱の本質』『「豊かさ」の誕生』等多数。著書に『バブルの興亡 日本は破滅の未来を変えられるのか』『自分を守る経済学』『マルクスを読みなおす』他。

構成=砂田明子/撮影=露木聡子

青春と読書
2021年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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