対等な教訓

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ブルーインク・ストーリー

『ブルーインク・ストーリー』

著者
安西 カオリ [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103539513
発売日
2021/04/21
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

対等な教訓

[レビュアー] 角田光代(作家)

角田光代・評「対等な教訓」

 安西水丸さんにはじめてお目に掛かったのは十三年ほど前で、ビールについての対談だった。ビール会社がスポンサーになっている対談なのに、水丸さんは、「ビールは最初の一杯しか飲まない」「本当に好きなのは日本酒」と言い続けて、なんだかおかしかった。その後、水丸さんの主催するカレー部に誘ってくださって、以降は、おもにカレー部の集いで水丸さんに会うようになった。日本酒を飲みながらカレーを食べる会だ。

 水丸さんはご自身のプライベートについてまったくといっていいほど話さなかったので、娘さんがいるとは知らなかった。知らなかったことにびっくりする。その娘さんである安西カオリさんがこの『ブルーインク・ストーリー』を書いてくれたことに、私はまず、深く感謝する。ここには私の知らない安西水丸さんがいるからだ。

 とても印象深いのは、父親である水丸さんが、子どもを子ども扱いしないことだ。カオリさんが書き留めた父親の言葉は、対等の人間に向けられている。そうしてブレがない。父親が娘に伝えていることは、一貫して「好きなもの」の「好きのありかた」だ。ジャズにフォークアート。ブルーウィローに民芸品。スノードームにこけし。中日ドラゴンズ、そしてカレー。

 それらのどれもが水丸さんらしいし、それらを描いた水丸さんの絵が思い浮かぶ。だから、ジャズも民芸品もこけしも、ポップなものに思える。おしゃれで軽妙なものに思える。けれどカオリさんによって描かれるひとつひとつは、きちんと深くて重い。そして水丸さんの「好き」の加減が半端なく強いことを思い知る。

 たとえばこけし。伝統こけしに魅せられた父親は、こけしの里のすべてを旅して歩き、気に入ったこけし工人の生家まで訪ねている。そのこけし工人の作るこけしは、名工だから好きなのではない、「日本女性の内に秘めた強さと哀しさのようなものがある」と語る。ただたんに、かわいいから好き、おしゃれだから好き、というのとはわけが違う。「好き」を支える信念と理想がある。そして気がつく。こけしがおしゃれなのではなくて、水丸さんが好きだと言うからおしゃれになるのだ。水丸さんの絵を見たから、かわいいものだと私たちの脳が認識するのだ。

 カオリさんはこけしにしてもブルーウィローにしても、まるで父親の「好き」を掘り下げるようにその歴史と背景を書く。そのおかげで、「もの」が、生まれるべくして生まれて、愛されるべくして愛され、今あるべくして私たちの前にある、ということをあらためて知る。水丸さんの「好き」は、その来歴すべてをひっくるめた「好き」なのだということも。そうして「好き」なものは身のまわりに置いて、使えるものは飾るのではなく使う。そのことも、父親が娘にくり返し伝えたことである。

 しなものでも食べものでも、町でも風景でも野球チームでも、好きなものを見つけて暮らしに取り入れる――父親が娘に伝え続けたことは、つまるところ、ゆたかに生きる、ということだ。スノードームがなくてもこけしがなくても私たちは暮らしていけるし、景品でもらった食器なら割れても落ちこまずにすむ。でもそんな暮らしは、まずしい。とぼしい。「いかにして時間を過ごすかということは、いかにして生きていくかということ」と父は考えていた、とカオリさんは書く。どんなにちっぽけであれ幸福な時間は幸福な人生を作るし、投げやりに過ごす時間は投げやりな人生を作る。カオリさんの文章を通して、私たちもまた、そのことを安西水丸という人から学ぶ。

 父親が娘に教え続けたのはそれだけではなくて、絵についても、表現についても、酒についても、多々ある。でもここに描かれる父親には、父権的な威圧感がまったくない。それは娘を対等な人として見ているところに拠るのだけれど、同時に、この父親は父親であることに照れている気もする。そして娘は、父であることに照れている父親を、父としてというよりも、やはり人として深く敬愛している。読み進んでいて、ある一文に私ははっとした。

「好きなことばかりしていたい父に苦労をかけたこともあったと思う。父親を知らない父が父親になってくれた」

 私が好きなことばかりしていて、父に苦労をかけたこともあった……と読み、読み返して、違うと気づいて衝撃を受けた。「父に」好きなことばかりさせてあげられないことで、苦労をかけた、と著者は書いているのである。なんと大きな、なんと強い、そしてなんと対等な愛情だろうかと私は胸打たれた。その愛情には甘えがない。この文章が、本書の独特な風とおしのよさを象徴しているように思う。

 本書は、まぎれもなく娘が父のことを書いたエッセイだが、安西水丸さんの生きかた論、仕事論と読むこともできる(論なんて言葉を水丸さんは嫌っただろうけれど)。そして何より、縁を持ったひとりの人とひとりの人が、それぞれをたいせつに思いながら過ごしたゆたかな時間の記録でもある。

新潮社 波
2021年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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