大正時代に生まれた憂鬱文学の嚆矢にして一種の幻想文学

レビュー

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田園の憂鬱

『田園の憂鬱』

著者
佐藤/春夫
出版社
新潮社
ISBN
9784101070018

書籍情報:openBD

大正時代に生まれた憂鬱文学の嚆矢にして一種の幻想文学

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「鬱」です

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 憂鬱という負の要素が詩や小説のなかで身近かに語られるようになったのは、おおまかにいって大正時代になってからだろう。

 詩では北原白秋、萩原朔太郎、小説では芥川龍之介、梶井基次郎、佐藤春夫らの名前が思い浮かぶ。

 いずれも繊細で、どこか弱々しい。明治時代は強さが求められたとすれば、大正時代はその反動として人間の弱さに目が向けられた。

 憂愁、不安、憂鬱といったそれまでは弱いと否定されてきた心の病いに文学者たちが気づき始めた。

 大正七年に発表された佐藤春夫の短篇『田園の憂鬱』は憂鬱文学の嚆矢。

 若い詩人が東京での暮しに息苦しさを感じ、妻と愛犬二匹を連れて東京近郊の村に移り住む。

 彼は得体の知れない重苦しい気分に悩まされていて静かな自然のなかでその憂愁をみつめようとする。

 自然の静かさに慰められもするが、心の不安は消えない。幻覚を見たり幻聴を聞いたりする。自分は「ヒポコンデリア」(神経衰弱)ではないかと不安になる。

 ある夜、犬を連れて散歩に出ると人影があらわれ犬を呼ぶと犬はついていってしまう。人影はドッペルゲンガー(分身)らしい。

 この小説が面白いのは、病んだ自分を否定していないこと。憂鬱な心が生み出す幻覚や幻想を、もうひとつの自分の世界として作り出していることにある。一種の幻想小説になっている。

 いわば、憂鬱という心の震えにまで文学の領域を広げた。その意味で画期的。

新潮社 週刊新潮
2021年6月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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