『コロナ時代のパンセ』
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コロナ時代のパンセ 戦争法からパンデミックまで7年間の思考 辺見 庸著
[レビュアー] 鵜飼哲(一橋大名誉教授)
◆日本社会の結界破る言葉
二〇一四年から七年間、日本と世界の激動を凝視して綴(つづ)られた珠玉の時評八十六本。著者によればこの時代の暗さは黒という色では表せない。ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴが『白の闇』で描いたような不透明な乳白色を思わせる。この小説は人々から視力を奪う原因不明の感染症の物語だ。感染者は隔離され脱走者は銃殺される。暗黒がもはや暗黒と知覚されないとき、「ぶあついのっぺりとした白い色」が社会を浸す。疫病克服のために国民の「公共心と協力」に訴える政府当局者の通告は、コロナ禍で日本政府が示した自粛要請の言葉遣いに不気味なほど似ている。
集団的自衛権の容認、安保関連法、特定秘密保護法、共謀罪と打ち続く安倍自民党政権の憲法破壊。相模原障害者大量殺傷事件、米国大統領選でのトランプの勝利…。「まさか」が現実に、「真実」が所在不明に、非常が日常になるとき、眼力を磨き続けることは至難の業だ。
とりわけ日本社会には思考に無意識の萎縮を迫る結界が張られている。著者は記者時代の先輩の言葉を思い出す。「おまえな、オリンピックと戦争と天皇には勝てねえんだよ」。「けっ、しゃらくせえ!」が口癖だったこの人は、事故か自殺か不明の轢死(れきし)を遂げる。「連日のオリパラ・ご退位さわぎ」はこの国のメディアの変わらない翼賛体質を露(あら)わにした。その先には改憲と戦争が待っている。これほど明白なことを指摘するにも言葉は結界を破らなければならない。そのためにこそ文体は研ぎ澄まされる。
芥川龍之介の「桃太郎」に憲法九条の歴史性を発見し、夏目漱石の『三四郎』に「すべてに捨てられた」今日の人のつぶやきを聞く。とりわけ中島敦「巡査の居る風景」から現在の日韓関係を照射する一文は、この時代の文学の存在理由をめぐる尽きない省察へと誘う。
一見情勢を離れて老いと死と障害に向き合った自画像群も油断のならないものばかりだ。なかでも三陸の海のホヤ貝が好物だった母の、「生きている」死を明かす一編からは、いつまでも鎮まらない胸騒ぎが残った。
(毎日新聞出版・1980円)
1944年生まれ。作家。著書『月』『純粋な幸福』『青い花』『霧の犬』など多数。
◆もう1冊
辺見庸著『完全版 1★9★3★7(イクミナ)』(上)(下)(角川文庫)