『三流のすすめ』
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一流能楽師が指南する承認欲求を超えた生き方
[レビュアー] 中江有里(女優・作家)
学業、スポーツ、趣味など一つの道を究めた方を「一流」と呼ぶなら、三流はあれこれ手を出して、どれもモノになっていない……という感じか。しかし本書はあえて「三流」を推す。三流=いろんなことができる多流と定義し、古典や漢文などを用いながら三流の生き方を指南する。
著者は能楽師のワキ方であり、甲骨文字、シュメール語、論語、聖書、短歌、俳句……と様々な言語や文化に通じ、それらを生かした執筆活動を続けており、まさに「三流」を地で行く。
「三流」の根底にあるのは「飽きっぽさ」。著者自身「飽きっぽい」を自認する。日本語は自分が飽きてしまう主体だが、英語の場合は相手が「飽きさせる」。このようにある言語をあらゆる角度から繙き「飽きる」を追求していくと、少々ネガティブに捉えていた「飽きっぽさ」が一つの才となっていく。飽きっぽいと言いながら、ひとつのことに「没入」できるのが「三流」なのだ。
たとえば大きな胃袋がいっぱいになれば何も入らなくなるが、いくつも小さな胃袋を持っていれば、ひとつがいっぱいになっても次を満たそうとする。「三流」とは、そんな小さな胃袋をいくつも持つ人だ。
「四十にして惑わず」の「惑」はあとから当てた漢字であり、本来の漢字から「区切らず」と読み解くことで、生き方をひとつに絞らず自分の殻を破り、自由を得ることができる。そのうえで「天命」を知るに至る。
翻って、なぜ人は一流を目指そうとするのか。
それは評価されたいからではないか。目標を持たず、我慢もしない「三流」は、褒められないことを受け止めなければならない。他人の評価を気にしなければ、生きやすくなる。
「三流」は楽なようで案外覚悟を要するのかもしれない。それだけ人が評価に縛られている証拠とも言える。
責任と価値観でがんじがらめになるよりも、風通しのよい「三流」を目指したい、と読了して思った。