生きてるうちに、言えなかったこと――65年連れ添った妻を亡くした老学者の溜息と恋ごころ

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あなたのいない毎日に、ぼくは慣れることができない。

2019年9月16日、社会学者・加藤秀俊さんの妻、隆江さんが逝去した。

2人は小学校の同級生で、知り合ってから80年以上、結婚してから65年の歳月が経っている。

日本がまだ若かった時代にともに歩み始めた二人の足跡を、ひとり残された加藤さんが追想する。(加藤秀俊さんの著書『九十歳のラブレター』より)

 ***

別れのあとさき

 こんなふうに力をあわせてほがらかに日々をすごしていたものの、さて、これからどうなってゆくのか、どうしたらいいのか、口にださないまでも、おたがいの人生の終末をなんとなく意識しはじめていたところに、「あの日」がやってきたのだった。

 入退院をくりかえすあなたの病状から、かねてから覚悟はしていたけれど、ほんとうに思いがけないことだった。だって、その前日の午後のお茶の時間のあとはチェスの対局。一勝一敗でなかなかいい勝負だった。夕食にはデパ地下の有名店で買ってきた中華料理の総菜をいっしょに食べ、いつものようにワインに口をつけ、あれこれ雑談をして、そのあと、例のとおりテレビをつけて九時のニュースがおわったころ、これまたいつもとおなじく、おやすみ、といってそれぞれの寝室にはいっていたからである。なんの異常もなかった。

 しいて思いだすことがあるとすれば、「きょうはお風呂ヤメとくわ」と入浴しなかったこと。でも、そんなことはときどきあったから、べつだんふしぎにもおもわなかった。寝るまえに血圧を計っておくのはおたがいの就寝まえの習慣。あなたは「きょうは130と70だわ、正常範囲」といった。

 だから、そんなごくふつうの老夫婦の、ごくふつうの日がおわって、翌朝はまた「おはよう」とことばをかわしてゆっくりコーヒーをたのしむのが当然、とぼくはおもっていた。いや「おもう」などというより、そういう日常の流れのなかにぼくは身をまかせていた。

 それがどうだろう。起きてくるはずのあなたは、ぼくが知らないうちに、あんなことになってしまっているではないか。その現実は信じることができなかった。いったいぜんたい、これはどういうことなのか。

 いまおもうと、その前兆のようなものを、どこかで感じていたような気がしないでもない。それは正確にいうと4日前、9月12日の午前中、あなたにつきそって眼科の医院へ月例の検査にいったときのことだ。

 あなたは心筋症や骨粗鬆症にくわえて、緑内障の進行をおさえるために二年ほど前から眼科にも通院していた。トラバタンズという名の点眼薬を一日一回、点眼するのもぼくの役割だった。ひとりだと、なかなか眼の中央に一滴を落とすことはむずかしい。「いいわよ、じぶんでできるから」とさいしょは強がりをいっていたけれど、この薬品が目の周囲にくっつくと、皮膚によくない、というから点眼は細心の注意でしなければならない。いつしかぼくに点眼をまかせてくれていた。これまた毎日のしごとだった。

 その眼科医院からの帰りがけ、近所の公園のベンチにすわってひと休みしたとき、木陰をつくってくれているケヤキの巨木を見上げながら、

「もうここに引っ越してきてから20年。はやいもんだわねえ、このケヤキもあっちのサクラも知らないうちにこんなに大きくなっちゃった、あっという間だったわね。木はこうしてどんどんのびてゆくけど、あたしたち、これからどうなるのかしら?」

 ぼくの顔をみつめながらあなたはつぶやいた。そうだった、このおなじベンチで、「それじゃここにしよう」と決心して住みなれた白金の家を売り、ここ世田谷の片隅に「終の棲家」をつくったのだ。ぼくは、

「そうだなあ、冗談じゃない、来年はもう90だよ、やんなっちゃうねえ、まあ、こうして生きてるんだから、まだまだ、たのしいこともあるんじゃないかな」

 と答えた。

 その日は9月にしては気温が高く、汗ばむほどだった。家にもどって麦茶を飲んでいたら、あなたが「どうしたんでしょ? きょうは肩が凝るわ」というから、椅子のうしろにまわって十分ほど肩もみをした。それでもまだ、かなりツラそうにみえたのでかかりつけ医の名前をあげて、

「念のためいってみようか?」

「そんなおおげさなことじゃないわ、だいじょぶよ、ありがとう、だいぶよくなったわ」

 そんな短い問答でその日はおわった。ことによるとそのときから、結滞がおきていたのではないか、といまになって漠然と思いだすが、まさかその4日後に、あんな「できごと」に出くわすなんて。

 そんな平穏な毎日のなかでのあの朝の突発的な発作だった。あなたがあまりにも呆気なく逝ってしまったので、ぼくはなにもわからなくなってしまっていた。

 自宅での突然死だから救急車を呼んでから病院に搬送されるまではおぼえているが、そのあとの記憶は混乱している。死亡が告げられるとすぐに数人の私服警察官が病院の救急棟にかけつけてきた。死亡時に医師が立ち会っていたわけではないから、あなたの遺体は「変死体」として取りあつかわれることになったのだ。

 病院の廊下の薄暗い片隅で、ぼくは警察官にことがらのあらましを問われるままに答えた。べつだん事件性のあろうはずはないけれど、規則上、ぼくたちの自宅も「捜索」をうけた。まだあなたのぬくもりのあるベッドの写真を撮ったり、内壁の指紋採取をしたり、前日の食べ物の残りはないか、と冷蔵庫をしらべたり、まるでテレビの刑事ドラマのような風景が我が家に出現した。長男は必要な手続きをすませるためにあわただしく警察や区役所にゆき、うちの台所では娘と長男の妻がこわばった表情で黙々と朝食のテーブルの後片付けをしていた。

 そんな事態の展開のなか、ぼくは「落ち着け、冷静になれ」となんべんもみずからに命令していたつもりだが、ただ呆然と居間のソファに沈みこんでいたようである。ありがたいことにこどもたちが健気にめんどうな手続きをしてくれたらしいけれど、なにがどうなっていたのか、いまになってもぼくにはわからない。あの日、なにをしたのか、どんなふうに一日がすぎたのか、まったく記憶がない。

 それからしばらくのあいだ、ぼくはほとんどなにもできなくなっていた。半年で体重は七キロほど痩せた。いまも、あなたのことが頭から離れることはない。ぼくはいつもあなたのことだけをかんがえている。これからもこんな毎日がつづくのだろう。それ以外にかんがえることもないし、こうしてあなたを無事に送ることができたのだから、もう、いつ死んでも心残りはないとかんがえるようになった。時間がたつとともに「ひとり暮らし」には馴れて、あたらしい生活のなかで生きることができるようになったが、いまでも、そんな気分はつづいている。

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加藤秀俊
1930年、東京渋谷生まれ。社会学博士。一橋大学卒業。京都大学、スタンフォード大学、ハワイ大学、学習院大学などで教鞭をとる。その後、国際交流基金日本語国際センター所長、日本育英会会長などをつとめる。また梅棹忠夫、小松左京らと「未来学研究会」を結成し、大阪万博のブレーンともなった。『加藤秀俊著作集(全12巻)』『アメリカの小さな町から』『暮しの思想』『メディアの発生 聖と俗をむすぶもの』『わが師わが友』など著書多数。訳書にリースマン『孤独な群衆』、ウォルフェンスタイン&ライツ『映画の心理学』(加藤隆江との共訳)などがある。

九十歳のラブレター』は絶賛発売中。

新潮社
2021年9月16日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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