なぜスポーツが経済学の研究対象になるのか? 『経済学者が語るスポーツの力』試し読み

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 来年の抱負として「運動」を掲げる方も多いのではないでしょうか。
 健康維持・増進はもちろんのこと、スポーツを通して社会生活全般において必要な「非認知スキル」が培われ、なんと将来の所得にも影響を与えるといいます。
 今回は、そうしたスポーツと経済の繋がりを考察した一冊『経済学者が語るスポーツの力』(佐々木勝 著)より、「はじめに」を全文公開します。

はじめに――なぜスポーツが経済学の研究対象になるのか?

スポーツで培われる非認知スキル

 2021年6月6日、布施スプリン――晴天、高すぎず低すぎない気温、そしてスタートラインからゴールまで流れる追い風という絶好のコンディションのなか、100m決勝で山縣亮太選手はスタートダッシュから力むことなくスムーズにホームストレートを駆け抜け、これまでの記録を0.02秒縮める9秒95の日本新記録を樹立した。追い風2.0mと公認されるギリギリの条件だったが、見事、その時点で今季世界8位となる記録を叩き出した。そして、好調を維持したまま、6月25日に開催されたオリンピック代表選考会を兼ねた日本選手権で見事3位に入り、オリンピック出場の切符を手に入れた。
 山縣選手はこれまで順風満帆な競技生活を歩んできたわけではない。これまで自己ベスト10秒00を2回も出しながら、なかなか0.01秒の壁を乗り越えて9秒台に突入することができなかった。その間、後輩に先を越されてしまい歯痒い思いをしたであろう。さらに、度重なる怪我や病気に悩まされ、心が折れそうになったこともあっただろうと推察される。
 山縣選手がこのように継続して努力し、研究し、怪我や病気をしてもくじけないメンタリティを持って陸上競技に取り組めるのは、彼自身の中に他の人々よりも強い克己心、自制心、そして根性があるからだと思われる。彼にそんな克己心、自制心、根性が備わっているのは、ひとえに彼が持つ生まれつきの特性だとまずは考えられる。つまり、それらが彼のDNAに組み込まれているというわけだ。
 ただ、すべて生まれ持った特性という先天的な要因だけで克己心、自制心、そして根性の程度が決まるのではなく、後天的な要因も大きく影響を与えると考えられる。山縣選手は小学生のときから地元の陸上競技クラブに所属し、中学、高校、大学と陸上競技に取り組んできた。ここでは毎日の競技生活を通して得られる経験、教訓や気付きが自身の内面にある克己心、自制心、そして根性を強化していったと考えられる。
 競技生活のなかでは何十回も試合があり、勝つ時もあれば負ける時もある。負けたくないという気持ちから、勝つために歯を食いしばって練習に励むことで根性を身につけられる。ただがむしゃらに練習するだけでなく、体調管理も必要だ。いくら好物でもスポーツ選手として好ましくない食べ物は控える自制心も競技生活を通じて培われる。山縣選手のように、競技生活のなかで怪我や病気になることはよくある。ライバルやチームメイトが練習し、試合で結果を出すのを傍で見ているとつい焦ってしまう。その焦る気持ちを抑えて、治療に専念するべきという心の持ち方をコントロールすることを学ぶのも競技を通じてである。
 このような克己心、自制心、根性はスポーツ競技を通じて得られる「技能」、または「スキル」と捉えることができる。このようなスキルのことを「非認知スキル」という(詳細は第1章)。非認知スキルは競技生活だけでなく、社会生活全般において必要なスキルである。
 社会人生活でも非認知スキルが必要であることは容易に想像できるであろう。時には納期に間に合わせるために根性を出さなければいけないときもある。同期に負けないように足を棒にしながら営業先を訪問するときもある。嫌な上司や取引先相手に対しても感情的にならず、あくまでプロジェクトを前に進めるためにぐっと堪える自制心が求められる場面もあるだろう。また、課された仕事を着実に仕上げる克己心は社会人として必要である。
 このような社会人にとって必要なスキルを習得する機会の一つとして、本書ではスポーツ活動を取り上げる。たとえば、苦しかった部活動の経験から身につけた非認知スキルが社会人生活に役に立つと考える。
 ここまでは、スポーツ活動によって克己心、自制心、根性のような個人レベルの非認知スキルが身につくことを述べてきたが、とりわけ団体スポーツ活動を通じては協調性や統率力のような非認知スキルを身につけることができる。
 たとえば、メジャーリーグで活躍するエンゼルスの大谷翔平選手。投打の二刀流として活躍しているが、今季はとくにバッターとしての活躍が目立つ。ついには日本人メジャーリーガー初のオールスターのホームランダービーに選ばれた。ハイペースでホームランを打っているが、一時期勝負することを避けられ、ほぼ意図的なフォアボールが多かった。しかし、大谷選手は勝負させてもらえないことに腐ることなく、フォアボールで1塁に出ればチームの勝利のために積極的に盗塁を試みた。打撃で貢献できないのなら、その代わりに足で稼ぐことでチームに貢献しようとする協調性が感じられる。
 このチームに貢献する姿勢は、エンゼルスに移籍してから指導されたものではなく、彼が小さいころから始めた野球人生のなかで学び、教えられたことであろう。同時にチームを引っ張る統率力や補欠になってしまった部員に対するいたわりや思いやりの必要性や重要性も学んだであろう。このようなスキルはプロの野球選手だけでなく、一般の社会人として身につけておくべきものであることは容易に理解できる。

有斐閣
2021年12月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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