「しなやかでナイーブな獣みたいだった」松田優作に説き伏せられて――。『もういちど、あなたと食べたい』試し読み

試し読み

6
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


松田優作さん

あらゆる映画賞を総なめにした傑作「家族ゲーム」(1983年)の後、森田芳光と松田優作の監督&主演コンビは次回作に取りかかったものの、あわや頓挫しそうになって……。名作「それから」(夏目漱石原作・筒井ともみ脚本)はこうして生まれた――。名脚本家が追想する、名優松田優作の熱情と素顔。

「松田優作さんと『にぎり寿司』」の一部を公開します。

 ***

 松田優作というしなやかでナイーブな獣みたいだった俳優を思い出すとき、私の裡に浮かんでくるのは、一八五センチの長身や贅肉のない鍛えられた肉体や、眠そうなのに鋭い眼光を宿す双眸や癖のあるちょっと可愛い唇なんかよりも、あの指のことだ。

 優作(以下、敬称略。感じじゃないので)の指は奇妙というか、とても個性的だった。長い腕の先に付いた手も大きく指も長いのだが、その指は根もとから指先までほぼ同じ太さなのだ。関節のシワとかゴツゴツもない。手の甲に静脈も見あたらない。似ているものを探すのなら、ゴム手袋みたい。まさかその指が寿司を慎ましくつまむ傍らで、私も小肌やマコガレイや煮穴子の寿司をつまむことになるなんて思ってもいなかった。

 優作と初めて会ったのは、共通の友人である大木雄高氏が営む下北沢のバー「レディジェーン」の暗がりだった。一九八五年の初めのころだ。その晩ひとりで飲んでいた(たいがいひとり)私はかなり酔っていて、奥まった席でひとり飲んでいる優作のテーブルにフラフラといってしまった。向うは私のことなど知りもしないのだが、こっちはスクリーンやブラウン管で見かけていたからついフラフラと。

 当時の優作はすでにスター俳優だった。二十三歳のとき、「太陽にほえろ!」でショーケン(マカロニ刑事)が去ったあと、ジーパン刑事として登場。犯人に腹を撃たれて血を流しながら、「なんじゃあこりゃぁぁぁーっ!?」と叫んで一躍人気者になり、その後は映画「最も危険な遊戯」「蘇える金狼」「処刑遊戯」「野獣死すべし」など次々主演して、アクションスターへの道を駆け上っていく。しなやかな獣のような体躯と抜群の運動神経を駆使して。でも、そんな優作の本質は、アクションスターだけでは収まりきれない「何か」を抱えていたのかもしれない。

 お女郎さんのお白粉や汐風の匂いが染みついた港町で生まれ育った韓国とのハーフ少年は、本を読むのがなにより好きだったという。やがて映画館や芝居小屋の暗闇に魅せられていった優作は上京して、まず芝居の世界に近付いていった。自分で幾本もの脚本やシノプシスを書きながらアングラ芝居の裏方として働き、文学座の研究所にも入ろうとするが、一度は失敗しちゃって二回目のトライで研究生に。そうしながらもオリジナルの脚本を書き演出もして、小さな芝居をシコシコとつづけていた。そして「太陽にほえろ!」でのブレークをスタートに、アクションスターのトップへとのぼりつめていった。

 そんな華やかな時期でも、優作は日常的なディテールとかリアリティとかに拘っていたし、芝居(舞台)への執着も抱きつづけていた。優作と知り合ってから一度だけ、彼の脚本・演出の舞台を観にいったことがあるが、観念的でムズカシクテ、よくわからなかった。

 アクションスターのトップでありながら「何か」の違和感を抱く優作は、テレビの世界で向田邦子(「春が来た」)や早坂暁(「新事件~ドクターストップ~」)の作品と出会い、鈴木清順監督「陽炎座」に出演。この正体の掴みにくい映画に優作がどんなに燃えたことか。そして、森田芳光というキラキラした才能を持つヤンチャ坊主みたいな監督と出会い、「ピストルを箸に持ちかえる」といって、「家族ゲーム」が作られた。アクションスターは変貌していったのだ。「家族ゲーム」につづくモリタ・ユーサクコンビの第二作を誰もが期待した。でも半年が過ぎ、一年が過ぎようとしても企画がカタチになれないでいた。

 私が優作と初めて出会ったのはこの頃だった。下北沢の酒場の暗がりで、私はあろうことか極めて失礼なことを言ってしまった。「あなたは此岸から彼岸へは行ったけれど、もういちど此岸へ戻ってこなくちゃ本当のいい役者じゃない」。

 酔っぱらいではあったけれど、あのとき自分の言ってしまった言葉をよく覚えている。ひっぱたかれるかな、と一瞬恐怖したが、優作は怒らなかった。怒らないばかりか唇の端を歪めて綺麗に微笑ってみせた。その仕草は、優作が気に入ったフレーズに出合ったときに見せる表情であることを知るのは、もっと後になってからだ。

 当時の私は脚本家と名乗ってはいたけれど、そう言いきれる自信など持てずにいた。職業欄を埋めるときは「無職」か「自由業」と書いて誤魔化していた。脚本家になりたいという意欲も執着もきわめて希薄だったし、自分を表現するなんて恥ずかしくてとてもイヤだった。生涯俳優であろうとした優作とはまるでちがう輩だった。

 その原因は私の生まれ育ち。優作には「優作」が作られた下地があったように、私にも下地があった。私が育った家にはおとなしい母と、母の姉である伯母と伯父がいた。ふたりとも俳優(故・赤木蘭子と故・信欣三)だ。かなりいい俳優だったと思う。とりわけ伯母は天才的資質のある女優だったときかされたこともあったけれど、私が物心つくころから心(精神)を病みはじめていた。なんの前触れもなく理由もわからず(まわりにいるものには)、ガラス細工のような神経がひび割れ砕け散って、幼い私はその破片を浴びながら育っていった。女優という生きものが怖くて不気味で、できるものなら近寄りたくはなかった。

 どこでどうやって道をまちがえたのか、あるいは「何か」に導かれたのか、私は女優と係わらなければならない脚本家になってしまった。本当はなりたくなどなかった。だからコンクールのようなものに参加したこともないし、初めて書いた脚本(アニメ「ドン・チャック物語」)も僅かなギャラとバーターだから書いたのだ。それなのにいつのまにか、病弱な母との暮らしを担うという要因はあったものの、脚本家になってしまった。

 たぶん私が書くのは、自己表現のためではなく自己隠蔽なんだと思う。見付からないように、書くたびに自分を脱ぎ捨てていく。外から見れば大した変化などもないのかもしれないが。だからちょっとばかり売れて仕事の依頼がたくさんくると、それも居心地がわるくて、注文のいっさいをお断りして脚本家を辞めようとしたことが二回あった。その二回目の空白から迷い出てまもないころ、企画が見えない長いトンネルの中にいた優作と出会ったのだ。

 一年以上も迷走していた森田監督のオリジナル企画が行きづまり、でも、どうあってもこの夜のうちに決着がつかなければ、モリタ・ユーサクコンビの次作は中止になる。優作には四ヶ月後から始まるコンサートツアーが決まっていたから。そんなギリギリの夜(包丁がとびかったとか、ピストル持ってこーい!と叫んだ奴がいたとか、伝説が囁かれた)、優作がポツリと言った。「次は、恋愛ものはどうだ」。それに応えて誰かが反射的に応えたという。「漱石の『それから』は?」。瞬間、その場にいた全員に鳥肌が立ったらしい。でも森田さんはもう脚本を書くエネルギーは無いという。優作がすぐに言った。「俺に心当たりがある」。そして私に電話をかけてきた。

 あの夜は氷雨が降っていた。電話を受けたのは母で、外で友人と会っていた私に報らせてくれた。

「あんたに会いたいんですって。急いでるみたい。マツダっていってたけど、あのユーサクさんじゃない?」。えッ。初めて会ったバーで二、三回位お酒を飲んではいたけど、まだ名のったこともなかったし、友人の店主はわざわざ紹介してくれるほどのお節介でも野暮な男でもない。なぜ急いで、私なんかに会いたいんだろう。

 待ち合わせをした代沢の「 45°」というレストラン・バーに、優作はひとりでやってきた。席に坐るなり言った。「仕事の話だ。モノは漱石の『それから』。森田が撮って、俺が出る」。本当に、それだけだった。優作の鋭いけれど不安気な双眸が私を見ている。心は動いたけれど、無理だと思った。すぐにも書かなくてはいけない仕事を頼まれている。

 そう思いながらも私の脳裡スクリーンに、ヒロイン三千代が映画に登場する最初のシーンが浮かんできてしまった。それは漱石の原作にはないのだが、職を失くした夫が、かつての親友代助に金の無心にいったその帰りを待っているシーンだ。三千代はまだ密かに代助を想っていて――。うしろ姿の三千代は片方の足袋を脱ぎコハゼを繕っている。宿屋の仄暗い部屋で片方だけ裸足になった三千代が浮かんだとき、私はもう得体の知れない微熱にからめとられていたのかもしれない。

 それでも迷っている私に優作は「映画だからって肩肘はらないでさ、ポップにいこうよポップに」と唇の端をあげてニヤリと笑った。「やってみようかな」と私が呟くと同時に優作は席を立ち、森田監督に電話をした。まだ携帯など一般的ではなくて、店にある電話からかけた。優作から手渡された受話器の向うから森田さんの元気な声が聞こえてくる。「ツツイさん。脚本、一週間で書いてね」「えッ……(思わず)せめて三週間」「ダメ。本当に時間がないんだ」。バナナの叩き売りみたいな押し問答のあげく、〆切は二週間後となった。初めてちゃんと書く映画脚本なのにたった二週間だなんて……。最後に森田さんは「がんばってね!」とエールを送ってくれた。まだ会ったこともない森田さんだけど。振り返ると優作はすでに席に戻って、あの指に両切り煙草をはさみ、めずらしく赤ワインなんか飲んでいた。

 私は俳優とプライベートで付き合うことは滅多にしない。奇妙な俳優がふたりもいる家で育ったから、苦手なのだ。それでも優作とは二回だけ、ふたりで食事をした。お酒は通うバーが一緒だったから、同席したりすれ違ったりはしたけれど、食事は二回だけ。どちらも寿司屋だった。カウンターに坐れば顔を見合せて話さなくてすむからだ。優作はステーキとかイタリアンとか好みそうにみえるが、思いのほかさっぱり素朴なものを好いていた。

 一回目の寿司は、NHK「ドラマ人間模様 追う男」が撮影されている大阪で食べた。その前日、スタッフから電話がかかってきて「優作と揉めている。このままじゃオレは降りる、ツツイさんを呼べ!と言われている」らしい。原因は聞かずとも推察できた。作品にこめる熱量の違いだ。優作は熱く、テレビドラマのスタッフたちの熱量がぬるいのだ。とりあえず大阪へ急いだ。推察した通りだった。私が不器用に取り成すと、優作はすぐに受け入れてくれた。面倒なことかもしれないが、この優作の揺さぶりのお陰でスタッフたちの熱量も上がっていったと思う。

 このドラマは「それから」の次の年に作られた。まず出演を依頼した時のこと。プロデューサーも演出家も一緒にいるのに優作にビビっていて、私に交渉しろという。慣れない私が「出て」と頼んだ。優作は鋭い眼を向けて「ひとつだけ訊いてもいいか」と言う。皆、ドキッ。次に優作は煙草をふかしながらこう言った。「俺は主役なんだろうねぇ」。なんてウィットのあるヤツなのかと胸が熱くなった。

 大阪へとんでいったその夜、ロイヤルホテルの寿司屋のカウンターに優作とふたりで並んだ。やや緊張して寿司をつまみながらも、私は改めて優作の指をまじまじと、そうとは気付かれないようにそっと、でもまじまじと見てしまった。不思議なゴム手袋みたいな指で慎ましくにぎり寿司を食べている。「蘇える金狼」のようでもあり、「家族ゲーム」の家庭教師のようでもあるオーラをまとって、静かに寿司をつまむ優作の指を見ているうちに、ふと、私の裡に奇妙な感覚がこみ上げてきた。

 このヒト、もしかしたら、アンドロイドじゃないかしら。

 アンドロイドというのは人間に似せて作られたロボット(人造人間)のこと。あのころにはまだAIなんてコトバも知られていなかったし、ロボットも未熟だった。人間にそっくりで、もしかしたら「人間のような感情」を持つかもしれないアンドロイドはSFの世界の住人だった。でも、ひょっとしたら、優作は――。そのころの雑誌に香港特集があって、夜景の写真に付けられたこんなキャッチフレーズを覚えている。「アンドロイドも泣き出しそうな夜景だ」。ユーサク・アンドロイド説は私のなかで少しずつ、確かなものになっていく。

「それから」が終わってじきのころ、こんなことを言われた。「ツツイさんの書くものなら何でも出る。但し、四年間だけね」。四年? 五年十年、二十年ならわかるけど。四年だなんて半端じゃない? 優作というのはそんな不安定なことを口走って、他者を惑わすのが好きだった。仕事選びにはうるさいと定評のある優作にそんなことを言われるのは嬉しかったけれど、いつもの揺さぶりジョークかなとも思った。後輩の役者をあの指でさしながら「お前は俺になれる」とか言っておだてて遊んでいたように。それなのに優作は約束を守ってしまった。ちょうど四年が過ぎたころ、優作は逝った。

(続きは、筒井ともみ著『もういちど、あなたと食べたい』でお楽しみください。)

新潮社
2021年12月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

▼新潮社の平成ベストセラー100 https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/