『聖子』
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聖子 新宿の文壇BAR「風紋」の女主人 森まゆみ著
[レビュアー] 中沢けい(作家)
◆2人の肉声 華やかな文化史
新宿花園神社のわきを走る明治通りを西から東へ渡ると、新宿の喧騒(けんそう)が急に遠くなる。小説家、学者、演劇人、編集者などが集ったバー「風紋」は新宿の喧騒より東、四谷のはずれの大木戸より西にあった。
「風紋」のことを書くように著者森まゆみに勧めたのは高田宏と粕谷一希だった。
高田宏はエッソのPR誌『エナジー』を創刊、企業のPRをせず、質の高い特集主義をとった雑誌として知られる。PR誌というよりも企業が文化支援をするメセナと呼んでもよいだろう。のちに歴史小説や随筆に優れた仕事を残した作家となった。粕谷一希は『中央公論』編集長として活躍した後に批評家に転じた。また、都市出版株式会社を起こし『東京人』を創刊した。
編集者としての視野と作家としての感受性を持った二人である。「風紋」の主人である林聖子が、大正から平成の文化の変遷を生き抜いた人であったかをよく知っているからこその勧めであったのだろう。
「風紋」主人の林聖子からの聞き書きはその父親であった画家の林倭衛(はやししずえ)から始まる。大正期に大杉栄などアナキストたちと親しかった画家で、パリに留学、画業を学ぶ留学生グループができる。芸術と文学そして社会運動の豊かさを感じさせるグループだ。昭和に入るとここに太宰治、井伏鱒二など中央線沿線に住んだ文学者の仲間が加わる。戦後は、林聖子自身が演劇にかかわるという「風紋」開店以前の前史がある。
聞き手である著者森まゆみの肉声と語り手である林聖子の肉声が、多声的に響いてくる。森まゆみは「この仕事をしていると、よく自分の父と母のことを思い出した」と記す。著者の父母と林聖子は同世代であり同時代の青春を送っている。そうした感慨を呼び覚ますのは「風紋」の主人の記憶が、生身の人が生きた文化史となっていることを表している。二人の肉声の中から過ぎ去った時代の華やかさが手触りを持って立ち上がってくる。
(亜紀書房・1980円)
1954年生まれ。作家。著書『鴎外の坂』『「青鞜」の冒険』『しごと放浪記』など。
◆もう1冊
水口素子著『酒と作家と銀座 老舗文壇バーのママが見てきた』(大和書房)