児童養護施設で暮らす女子高生の物語 『ななみの海』試し読み

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 これまで、社会的背景をモチーフとした小説を多く発表してきた作家・朝比奈あすかさん。

 スクールセクハラに果敢に切り込んだ『自画像』、小学校運動会の組体操の是非を問う『人間タワー』、小6の教室内の空気を繊細に掬い取った『君たちは今が世界すべて』、中学受験に過熱する家庭を描いた『翼の翼』など、いずれも多くの読者の支持を集めた。中学や高校の受験問題に作品が採用されることも多い。

 その朝比奈さんの最新作『ななみの海』が刊行された。中学時代から児童養護施設で暮らす女子高生、ななみの成長を描いた長編小説だ。今回その『ななみの海』の冒頭を公開する。

***

 いつもどこからか潮の香りがする町に住みながら、ななみは海が好きではなかった。

 友達というのは不思議なもので、見えない磁石で吸い寄せ合うように、気づいたら一緒にいる。快活でおしゃれなみえきょん、勝気でリーダー気質の瀬奈、成績優秀お嬢様のズミ。高校二年生のななみは、いつからか、同じダンス部に所属しているこの三人と過ごす時間が長く、おおむね平和にやっている。

 同じ制服、似た背格好、休み時間に集まってダンスの振りを合わせたりしている四人は、傍目には似た者どうしの仲良しグループに見えるだろうし、実際それはそうなのだが、ひとりひとりの内面は当然全く異なる。みえきょんの自分語り――あたしあたしと時々うざい――、瀬奈の毒舌――やる気のない部員や後輩に対して厳しめ――、ズミのちょっとルーズなところ――試験前に学校を休んだり、水泳やマラソンを平気でサボる――、などにはたまにもやもやするが、基本的に仲間思いの優しい子たちだと分かっている。高校生にもなると、付き合い方は大人びて、互いを気遣いながらうまくバランスを保てるようになった。

 ななみは自分を、そのあたりの、人付き合いの匙加減がうまいタイプと自己分析している。小学校も中学校も、周りと揉め事を起こしたことはない。いじめられたこともない。

 うまくやっていくこと。それはななみにとって、いつもいちばん大事なことで、ものごころついた頃には、自分のなかみをたやすく晒さないのがコツと心得ていた。

 それが少しだけ変化したのは高一の冬、初めてみえきょんの家に招いてもらった時だった。

 みえきょんの家は理髪店を営んでいる。お父さんとお母さんが二人でやっている、性別年代問わず誰でも受け入れる理容室と美容院の中間のような店だ。

 みえきょんに続いておずおずと店内に入ると、職人風のお父さんが常連とおぼしきお客さんの髭を剃っていて、その隣で金髪のお母さんが、女性のお客さんの頭にカーラーをくるくる巻き付けていた。壁の上にちいさなテレビがついていて、芸能人たちがちょうどわっはっはと笑って、盛り上がっていた。暖房がすみずみまで効いたそのあたたかな空間に、ななみはなんだか、ずっと前からこういう場所を知っている気がした。

 この場所でのおかえりーただいまーのやりとりが、三百六十五日の日常なのだろう、流れるようにかわされて、その後でみえきょんが二人に、

「この子、ななみん」

 と、紹介した。

「ああ、親友ちゃんね。よく来てくれたねえ」

 みえきょんのお母さんに言われ、ななみはとっさに返事ができなかった。

 なんだったのだろう、あの感じは。ななみは動揺したのだ。みえきょんのお母さんの笑顔には、見ず知らずのななみへの、温かい信頼があふれ出ていた。そして「親友ちゃん」のひと声。他愛もない挨拶だとは分かっていた。だけど、みえきょんが自分のことを家でそんなふうに話していて、みえきょんの家族に自分が当たり前のように受け入れられていることが、ななみはとても嬉しかった。

 そのせいで、というべきか。その日、理髪店の二階のみえきょんの部屋で、ななみは当面誰にも話すつもりのなかった自分の話をし始めていた。

 現在「寮」に住んでいること。ななみには両親がいないということ。

 ずっと言いそびれちゃってたんだけどさーと、なるべく軽い感じで話し出したが、目の前でみえきょんの表情がみるみる強張ってゆくのを見て、間違えちゃったかなとななみは思った。

 その後のことはよく覚えている。みえきょんは本当に驚いたようだった。驚いたことを隠そうと、目を泳がせた。そして急に、実は自分の母親は再婚なのだと言った。それは、唐突な告白だった。「おかえし」みたいなつもりでプライベートなことを話そうとしたのかもしれなかった。そのことに、ななみはかすかに傷ついたのだけど、ものすごく上手な無反応の演技をされるよりはましかもしれず、親友の思いもよらぬ告白に対し、自分の話をしてなんとかバランスを取ろうとしてくれたことは、優しさ以外の何ものでもなかったと今は思う。

 そんなものだろうな、と後からななみは考えた。「家の子」たちは、「寮の子」たちのことを、詳しく知らない。そういう場所があることを、おぼろげには知っていても、身近にいなければ、詳しく知る必要もないことだ。

 そもそも「家の子」は家族と一緒に家で暮らしている子のことで、「寮の子」は施設に暮らす自分たちを指すのだけど、その呼び方自体、寮の子しかしない。みえきょんにとっては、想像もしていなかったことだったのだ。

 寮の子の中には、自分を家の子に見せようとする子もいる。

 ななみのひとつ年上の萌音は、高校の子たちには「家の子ってことにしてる」とはっきり言っていた。三か月付き合って別れた彼氏にも、最後まで明かさなかったそうだ。付き合い始めの頃、万が一、街でうちらにばったり鉢合わせしても、絶対挨拶とかしないでね、と言われた。中学生だったななみは、なんだか息苦しくなって、反発の気持ちも湧いた。

 けど、高校に入ってみて、萌音の気持ちが理解できた。

 萌音とは違う高校に通っているのだけど、どちらにしても高校という場所が、小学校や中学校とは全然違うということを知ったからだ。

 小学校と中学校は寮のそばにあり、どの学年にもだいたい寮の子たちがいた。保護者会も行事も寮の職員が来てくれるし、近所の家族が寮のバザーや祭りに足を運ぶこともある。先輩も友達も先生も、当然寮の存在を知っていて、それがふつうになっている。だけど、電車やバスを使って遠方の高校に通うことになると、そこはいきなり、誰も寮を知らない世界だ。親とかきょうだいとかのことなんか何も話さない子がたくさんいて、家の事情なんて、関係ないような感じもする。そこでわざわざ自分だけ、わたしは家の子じゃないんですということを言うのは変で、いったん言いそびれたらそのまま言いにくくなった。隠すつもりじゃなくても、そうなった。

 だけど、誰かと時間をかけて仲良くなってくると、話さずにいるのが難しいことも起こる。

 たとえば去年のクリスマス。どんな話の流れだったかは忘れたが、「思い出作りをしよう」ということになった。高一の最後に、何か大きなことを。

 韓国旅行しようと瀬奈が言った。「行きたい!」「行っちゃう!?」。ななみとみえきょんはパスポートを持っていないし、厳しいと評判のズミの親が高一の女の子四人の海外旅行など許すはずもない。ありえないことだと分かっていたから、行けそうなふりができたのだ。

 予想通りズミ親から海外NGが出ると、翌日瀬奈は、保護者の承諾書があれば未成年だけでも宿泊OKな近県のペンションを見つけてきた。「高一最後の思い出作り」という瀬奈の言葉に、みえきょんの顔が輝き、ズミも「国内なら大丈夫かも」と言った。ななみの心は重たく沈んだ。

 友達の家にならばお泊まりできないわけでもないことは、歴代の先輩たちの様子からうっすら知っていたが、さすがに民間の宿泊施設はだめだろう。ごねてすねて、寮の職員たちと揉めまくれば何とかなるかもしれないが、女子班担当の光芽さんに迷惑をかける。アルバイトの予定もあるし、寮での係の仕事もあるし、交通費、食費、宿泊費……。

 眠れないほど悩んだ。学校に行きたくなくなるくらいに思いつめた。

 翌日ズミが「国内でも泊まりは無理って親に言われた」と言い、あっさり話は流れた。

 後から思えば、些細なことだったが、あまりに思いつめていたななみは、命を救われたと思うほどにほっとした。なんでそんなに思いつめたのか、今もよく分からない。ズミはひどく青ざめていて、自分のせいでごめんと何度も謝ったが、ななみの心はこっそり晴れ渡ったのだった。

「思い出作り」は海行きになった。

 あえて行く必要がないから行かないだけで、ななみが通学に使う電車は、乗り続けていれば海まで運んでくれるのだった。四人はその電車で終点まで揺られた。駅から十分ほど歩けば、海を見おろせる公園に出る。

 瀬奈とズミはそれぞれの彼氏とよく来ているようで、海までの道に迷いがなかった。

 高台から見下ろせる海は、曇り空の下で鈍く光り、岩場へ打ちつける白い波しぶきは荒く跳ねていた。あたりにひとけがないせいか、いつかどこかで見た古い映画のはじまりのシーンのような物哀しい感じがした。中学校の「磯観察遠足」でも、寮の「海遊びの日」でもなく、友達とわざわざ、海を見るためだけに海に行くのは、ななみにとって初めての経験だった。

 その日はとても楽しかった。

 海はBGMみたいなもので、四人一緒にいられれば、結局のところどこでもいいのだった。それならば、そもそもお泊まりなどしなくても良かった。しゃべっていれば楽しい。

 海を背にいろんなポーズで写真を撮り、ダンスの動画まで撮った。夏合宿や文化祭の思い出話で盛り上がって、いつまでも話していられそうだった。話しながら、それぞれが撮った画像を加工アプリで面白く直したりして見せ合うのも忘れなかった。

 時間が経つと、雲の間から射し込む弱い陽が海面を暗く落ち着いた紺色に照らし、風が急に冷たくなった。

 するとななみは、ほんの少し前までただひたすら楽しかったのが嘘のように、心が締めつけられた。

 それは、まるで波のように打ちつける感情だった。健やかに笑い合っている友達に囲まれながら、ななみは突然に、言いようのない孤独に引きずりこまれた。

「ななみん?」

 表情の変化に目ざとく気づいたみえきょんが、こちらを見ていた。

 慌てて笑顔をつくった。

 だけど、言葉を返す余裕もないほどに、孤独はななみを深い底まで一気に沈めた。ズミと瀬奈が気づかずに、はしゃぎ続けてくれていたことが、せめてもの救いだった。

 切り取ったり加工したりした時間を、それぞれのSNSにアップしてから、駅までの海沿いの国道を、楽しかったー、最高だったー、と言い合いながら歩いた。風が強く吹きつけて、放つ言葉がそのまま飛ばされてゆくようだった。ななみは皆と別れがたく感じながら、でも早く一人になりたかった。そんなふうに、突然どうしようもなく心が沈んだり、ぐらぐらと揺れたりすることが、たまにあった。

 翌朝になると、あれほど苦しかったのが嘘のように、心は凪いでいた。

 寮に預けていたスマホを取り戻してから確認すると、三人が、一日を名残り惜しむようにたくさんのメッセージを送り合っているのが分かった。

「人生でいちばん楽しい日だったわー」「楽しすぎてはなぢでそ」「また行くしかないな」「明日でもいいよ」「塾あるだろ」「休むし」「ななみんは?」「寝たんじゃね?」「早www」「おーい」……

 まとめて読んだら笑ってしまった。

 寮の決まりで夜はスマホを預けなければならず、リアルタイムでメッセージを送り合えなかったことは悔しかった。だが、「人生でいちばん楽しい日だった」という、みえきょんの文字に、ななみは泣きたいような気分になった。

「人生でいちばん」だなんて、自分にはとても言えない言葉だと思った。

 勢いで大げさに書いたことくらい分かっているけれど、さらっとそんなふうに言ってしまえる彼女の明るい心根が、ただただ羨ましいのだった。そして、その羨ましさは嫉妬のようなものではなく、一緒にいることで自分の心も澄んでゆくような、心弾む感情だった。

 早く、みんなに会いたいと思った。

 ななみは、三人のことが大好きだった。

 だけど同時に、海を見た時に感じた、底知れぬ寂しさもまた、消えることがないのを感じていた。これはきっと、永遠に飼いならさなければならない感情なのだろうと、ななみは思った。

 ***

『ななみの海』は絶賛発売中です。続きは書籍でお楽しみください

COLORFUL
2022年4月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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