アントニオ猪木の闘魂を撮り続けた写真家が語る50年――「北朝鮮の祭典」から「イラクの人質解放」まで 『猪木』試し読み

試し読み

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 高校生の頃、勝手にリングサイドに入り、アントニオ猪木を初めて撮影してから約50年。大学時代に新日本プロレスに直談判して正式な撮影許可を得た写真家・原悦生は、スポーツニッポンに入社してからも会社を休んで〝燃える闘魂〞を追い続け、猪木が政治家に転身してからは海外での活動に同行することになる。
 「モハメド・アリとの世紀の一戦」、「BI砲が復活した夢のオールスター戦」、「第1回IWGPで起きた舌出し失神事件」、「マサ斎藤との巌流島決戦」、「キューバのカストロ議長との会談」、「イラクの邦人人質解放」、「北朝鮮で開催された平和の祭典」――。猪木史に残る出来事を至近距離で目撃してきた著者が蔵出しエピソードを収録した一冊『猪木』(原悦生 写真&著、辰巳出版刊)から、一部の試し読みを公開する。

* * *


スポーツ平和党を立ち上げた猪木は、99万3989票を獲得して参議院選挙に当選。

 1989年6月15日、私は全日空ホテルにいた。猪木にとって3人目の夫人となる尚美さんとの結婚発表記者会見を取材するためである。
 この時点で、猪木はすでに政治家への転身をほのめかしていた。
 そのニュースを聞いて、私は力道山の姿を思い浮かべた。猪木から、こんな話を聞いたことがあったからだ。
「力道山は死んでいなければ、参議院選挙に出ていたんだ。俺も政治には興味があるんだよ」
 そして、本当にかつて力道山が夢見た世界を猪木が受け継ぐ形になった。
 出馬を決めた猪木は新日本プロレスの社長を辞任し、6月20日にスポーツ平和党の事務所開きを行った。キャッチフレーズは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。事務所の場所は、東京タワーの真下にあった。
 猪木には当選してほしい。しかし、議員になった暁には必然的にリングから遠ざかることになる。この時期、猪木は体力が落ちてきていたから、それも仕方ないことなのかもしれない。私はそんな思いを抱きながら、スポーツ平和党の事務所に向かった。
 この時、私は事務所にプロレスの写真を飾れるように、自ら何枚かのモノクロのパネルを提供した。リング上の笑顔や「ダァーッ!」をしている姿、ラッシャー木村にインディアン・デスロックをかけているシーン、選挙のキャッチフレーズだった卍固め、延髄切りの写真もチョイスした。
 公示の前日、私は事務所を再び訪れ、猪木に写真撮影を頼んだ。
「猪木さん、前祝いに一つやりますか?」
「おお、いいよ」
 笑顔で応える猪木と一緒に外へ出て、事務所の脇にある公園に向かった。事務所の前で撮ると、東京タワーが写らないのだ。
「ダァーッ!」
 猪木は周りに誰もいないが、声を出しながら東京タワーをバックに右手を掲げた。こういう時、猪木は実際に声を出す。そうしないと、口の感じが不自然になり、リアリティが出ないのだろう。この写真は週刊ゴングに掲載された。

 1989年7月5日、選挙戦の初日。猪木は出陣式を終えると、池上本門寺を訪れて力道山の墓に手を合わせた。私がここに来るのは、力道山の銅像の除幕式以来だった。あの日、猪木はいなかった。確か海外にいたと記憶している。
 多くの報道陣が囲む中、今は亡き師匠に出馬の報告を終えた猪木は選挙カーに乗り込む。最初の街頭演説には、人の多い渋谷を選んだ。
 この選挙活動で、猪木は「全国100万人握手作戦」を始めた。猪木の手は1週間もしないうちに腫れ上がった。
「行けば、わかるよ」
 そう言って、猪木は選挙期間中に全国を回った。演説中に言葉が詰まり、涙があふれたこともあった。
 最終日の夕刻、銀座へ行って猪木の写真を撮った。新日本プロレスから飯塚孝之(高史)など数人のレスラーを引き連れて、猪木が東京タワーまで走ると聞いたからだ。
 私はさすがに一緒に走りながら撮影するわけにはいかないので、タクシーで東京タワーの前に移動し、猪木が来るのを待っていた。選挙演説は夜の8時までしか許可されていない。ここで最後の演説をすることは聞いていたので、7時半までにいれば大丈夫だろう。
 猪木が戻って来た。そして、最後の演説を始めた。
 この時、猪木は泣いていた。そして、みんなに感謝の言葉を述べていた。
「やるべきことはやった」
 選挙活動を終えて、そう猪木が口にしたことを憶えている。初めての選挙だが、本人なりに手応えを感じていたのだろう。
 投票日、私は自宅近くの投票所に足を運び、スポーツ平和党に1票を投じた。当時は投票用紙に政党名を記入しなければならず、「アントニオ猪木」と書くと無効になるというルールだった。これも後で話題になったが、猪木の名前が書かれた無効票がかなりの数あったようだ。
 比例の開票は翌日だった。私はスポーツ平和党の事務所に向かった。
 誰もが猪木の当確情報を待っている。私は早々に当選が決まると思っていたが、前記の理由で票が思いのほか伸びていないようだ。午後になっても当確はつかない。残りの議席は「1」になっていた。だが、猪木の表情は変わらない。
 そうこうしているうちに民放の局が一度、猪木に当確を出した。しかし、テレビの画面を眺めていた猪木は、「NHKで出るまで待つか」と慎重な姿勢を崩さなかった。
 それから、どのくらい経っただろうか。NHKの当確情報が出た。比例区の最後の1議席を猪木が獲得した。
 沸き上がる歓喜の声。だが、猪木は座ったままだ。周りの人たちが順番に駆け寄り、「おめでとうございます」、「良かったですね」と猪木に握手を求めた。
 猪木はカメラのフラッシュと関係者・支援者たちの歓声の中で、勝利の雄叫びを挙げた。だが、私はそれよりも印象に残っている光景がある。
 事務所には橋本真也が来ていた。橋本は猪木当選の報を受けて、泣いていた。喜怒哀楽が激しく、猪木信者の橋本らしい。涙が止まらない橋本。その姿を見て、猪木は「かっこ悪いな」と笑っていた。
 最終的に猪木は99万3989票を獲得して、国会議員になった。当選が決まった後、猪木は「必要な時に必要な分だけ与えられた」と言っていた。おそらく、これはギリギリの得票数のことを言っていたのだろう。


筆者はリングコスチュームに身を包んだ猪木と国会議事堂の前でゲリラ撮影を敢行。

 この時、私は政治家・猪木と何度も海外を旅することになるとはまったく思っていなかった。
 私の中で、どうしても撮りたい写真があった。
 猪木はまだ初登院前だったが、国会議事堂の前でガウンとリングシューズを身につけた猪木が「スポーツ平和党」の看板を持って立っているというものだった。
 このプランは集英社の編集者・田中知二さんには伝えてあったが、さすがにできるかどうか不安はあった。そのために保険として、当日はスタジオも押さえておいた。
 当日、月刊プレイボーイの取材を兼ねた食事が終わったものの、私はなかなか言い出せないでいた。そこで代わりに田中さんが切り出してくれた。
「猪木さん、原さんがどうしても撮りたいというのですが、これから国会前に行ってガウンとリングシューズで写真を一枚お願いします」
 ガウンとリングシューズの手配はすでに新日本プロレスに連絡済みで、会社から頼まれた飯塚がトランクを持ってきてくれた。真面目な飯塚だけに、なんでこんな食事をしているところにガウンとシューズが必要なのか不思議に思ったことだろう。スポーツ平和党の看板も、すでに事務所から外して車に積んであった。
 猪木は意外な申し出にちょっと面倒くさそうな表情を見せたが、了承してくれた。天気は曇っていて、時間も午後4時半になっていたから、急がなくてはいけない。
 ハイヤーで急いで国会議事堂方面に向かう。車中、猪木は疲れていたのか眠ってしまったので、到着すると再び少し面倒くさそうな顔になった。
 国会議事堂の正面の道路の真ん中で、ガウン姿の猪木にスポーツ平和党の看板を持って立ってもらう。
 当然、許可など取っていないから、ゲリラ的な撮影である。行きかう車が応援のクラクションを鳴らして走っていく。観光バスからは、「猪木!」と声援が飛んだ。これで猪木にスイッチが入った。
 時間にして、数分の撮影だった。警察や国会議事堂の警備員が飛んでくることもなかった。
 私はすぐに現像所に向かい、2本のフィルムを入れた。現像が上がるのが待ち遠しかった。
 50ミリと105ミリのレンズを付けた2台のカメラで撮影したが、105ミリで振り返ってもらったカットが気に入った。

「合成じゃないよ」
 田中さんはそう言いながら、嬉しそうに編集部内でこの写真を見せまくった。
 これは月刊プレイボーイの猪木特集のトビラ写真になった。その後もいろいろなところで使われたから、猪木ファンならきっと見たことがあると思う。
 さらに、この写真を見て旧知の古館伊知郎さんが「俺も同じような写真を撮りたい」とオファーをくれた。それについては、巻末の対談を参照していただきたい。
 国会がらみでは、もっと無謀な撮影を試みたことがある。猪木の初登院の前日、私は議員会館を訪れて小さな白い箱を机に置いた。
「猪木さん、開けてみてください」
 猪木が箱のふたを開けると、モータードライブを外した『NIKON F3』のボディに魚眼レンズが付いたカメラが入っている。猪木は興味深そうな目をした。
「これは何?」
 このカメラはセルフタイマーになっていて、シャッターボタンを押せば、10秒後に写真が撮れる。レンズの角度も調整済みだった。
「猪木さん、このボタンを1回押してください」
 猪木は嬉しそうに、「これ、面白えな(笑)」と言ってくれた。
 私がこんなことを企てたのには理由がある。私は日本国民として国会内の傍聴はできるが、国会記者クラブに入っていないので傍聴席からの撮影はできない。そこで初登院の記念すべき写真は、猪木本人に撮ってもらうことにしたのだ。
 当日、私は傍聴席にいた。猪木は白い箱を手に持って議場に入って来た。猪木が持っていると、箱は厚手の本くらいにしか見えない。
 今は知らないが、当時は国会内において議員の写真撮影を禁じる約束事はなかった。誰もそんなことをしようした人間がいなかったのだろう。
 果たして――。
 私は議員会館に戻って、玄関口で議場から帰ってくる猪木を待った。
 猪木が戻って来たのでエレベーターに一緒に乗ると、「どうかな? 念写しておいたよ」と言いながら白い箱を手渡してくれた。
 現像された写真を見て、驚いた。猪木は1回シャッターボタンを押した後、さらに自分で2回フィルムを巻き上げて、合計3枚も撮影していたのだ。猪木はすましていたが、後方には自撮りしていることに気付いた中曽根弘文議員が笑っている姿が映っていた。


初当院した猪木は筆者特製のカメラを議内に持ち込み、セルフポートレイトを撮影。

 この写真は「撮影・アントニオ猪木(プランナー・原悦生)」とクレジットを入れて、月刊プレイボーイに掲載された。その時点では、どこからも何のお咎めもなかった。
 それからしばらくして、猪木から連絡が来た。
「議員の写真展があるんだ。あの写真を出したいんだよ」
 私は元のポジフィルムから引き伸ばし用のネガを作って、猪木に渡した。
 その写真に、猪木は「私は優等生」という洒落たタイトルを付けて写真展に出品した。
 しかし、これがトラブルになる。この写真展で猪木の写真を見つけた共同通信の記者が問題視したのだ。
 言いつけられた猪木は、国会の規律委員会のようなところから注意を受けた。これは日本の記者クラブ制度の悪い体質だ。自分たちにできないことは、何でも禁止しようとする。
 しかし、当時の国会内における議員の禁止事項に「議場で写真を撮ってはいけない」とは書かれていなかったため懲罰の対象にはならず、「今後はやらないように」と口頭で言われただけで済んだようだ。
 スポーツ平和党の事務所からは「原さん、あまりやり過ぎないでくださいよ」と釘を刺されたが、これは私にとって楽しい仕掛けだった。

 それから約2ヵ月後の10月14日、私の自宅の電話が鳴った。スポーツニッポンの文化社会部の記者からだった。古巣の先輩である。
「猪木が福島で刺された」
 私は即座に、かつて社会党の浅沼稲次郎党首が日比谷公会堂で演説中、右翼の少年に刺殺された事件が頭に浮かんだ。
 福島県会津若松市で講演中に暴漢に襲われた猪木は、ナイフで頭を切りつけられた。かなり出血したそうだが、運良く傷は動脈には達していなかった。猪木は襲われた後も数分間講演を続けたという。左耳の後ろから首筋にかけて、10針を縫うことになった。


福島県会津若松市で暴漢に襲われた翌日、東京・夢の島のイベントに来場した猪木。

 猪木は翌日、東京の夢の島で行われた留学生イベントに包帯姿でやって来た。元々、私はこのイベントを取材する予定で、当日は新日本プロレスがリングを組み、試合を提供。私は若手の片山明を捕まえて、青空をバックにファイティングポーズを撮ったりしていた。
 挨拶のために猪木が来場すると、早速マスコミが囲んだ。
「大変でしたねえ、猪木さん。痛みますか?」
「そりゃ痛いよ。でも、少し箇所がズレてくれたから良かったよ」
 その姿は痛々しかったが、思いのほか元気な様子で、挨拶のスピーチも特に問題なく行った。
 後日、猪木と一緒にいた時に、この事件の話になった。
「ちょっとズレていたら、危なかったよ」
 もし猪木が暴漢に襲われた時、その場にいたら私はどうしただろうか。カメラマンの習性として、まずシャッターを押していただろう。人道的におかしいと思われるかもしれない。しかし、新聞社では「モラルやルールは守らなければいけないが、事件が起きた時は例外」と教わる。とはいえ、もし舞台のソデなど近くに陣取っていたら、そのまま猪木のところに駆け寄っていただろう。

――続きは本書でお楽しみください。

* * *


『猪木』(原悦生 写真&著、辰巳出版刊)

アントニオ猪木推薦! “闘魂”を50年撮り続けた写真家・原悦生氏の集大成となる一冊
タイトル:「猪木」(G SPIRITS BOOK vol.17)
写真・著:原悦生
定価:2,530円(本体価格2,300円+税10%)
発売日:2022年3月30日(水)
発売元:辰巳出版株式会社

【目次】
はじめに 夢の中の猪木
第1章 初めて猪木を写真に収めた日
第2章 至近距離で目撃した〝世紀の一戦〟
第3章 打ち上げに現れた〝独眼竜〟猪木
第4章 目の前で起きた「舌出し失神事件」
第5章 東京体育館の天井から撮影した「延髄斬り」
第6章 巌流島で感じた「闘いのロマン」と「男の切なさ」
第7章 英語で話しかけてきたイタリアのパキスタン人
第8章 〝伝説の革命家〟フィデル・カストロ議長が流した涙
第9章 感動的だった「人質解放のダァーッ!!」
第10章 素直に、見えたままに猪木を撮る
第11章 猪木は北朝鮮で「力道山」になった
第12章 印画紙に浮かび上がってきた「猪木」
スペシャル対談 古館伊知郎×原悦生
おわりに 「猪木」という特異な空間


あの日、猪木が日本武道館でモハメド・アリと戦うことがなかったら、私は猪木をこんなに長く追うことはなかっただろう。猪木がスライディングに行く時のシューズがマットに擦れる音がいまだに耳に残っている。


当時も今も「馬場と猪木は仲が悪い」と言われるが、私はそうは思わない。後年、猪木は独特の笑みを浮かべながら、こんなことを口にした。「俺は一度も馬場さんのことを悪く言ってないよ」。私はこれが人間・猪木の本心だと思っている。


盃を傾けながら2人でどんな話をしたのか猪木に聞くと、日本酒を重ねたカストロ議長は革命の盟友チェ・ゲバラとの思い出を語り出したという。「俺は、つい死んだ娘の話までしてしまった。そうしたら、あのカストロさんが涙を流してくれたよ」。


当時、イラク問題は「湾岸危機」と呼ばれて緊迫していた。1990年10月23日、私は戦場カメラマンでもないのに高額の戦争保険に入って、猪木と一緒にバグダッドに入った。いつ空爆が始まるのか。その緊張感は今でも忘れられない。

原悦生(はら・えっせい、はら・えつお)
1955年、茨城県つくば市生まれ。早稲田大学卒。スポーツニッポンの写真記者を経て、1986年からフリーランスとして活動。16歳の時に初めてアントニオ猪木を撮影し、それから約50年、プロレスを撮り続けている。猪木と共にソ連、中国、キューバ、イラク、北朝鮮なども訪れた。サッカーではUEFAチャンピオンズリーグに通い続け、ワールドカップは1986年のメキシコ大会から9回連続で取材している。プロレスの著書に『猪木の夢』、『Battle of 21st』、『アントニオ猪木引退公式写真集 INOKI』、『1月4日』、サッカーの著書に『Stars』『詩集 フットボール・メモリーズ』、『2002ワールドカップ写真集 Thank You』などがある。AIPS国際スポーツ記者協会会員。

辰巳出版
2022年5月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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