BTS・ジミンが読んで話題に、桂冠詩人が見つめた老いと死 『死ぬより老いるのが心配だ 80を過ぎた詩人のエッセイ』試し読み

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BTS の JIMIN(ジミン)がアルバム『BE』のコンセプト会議で語った話題のエッセイが待望の邦訳!

 本書は 2020 年 11 月にリリースされた BTS のアルバム『BE』のコンセプト会議でジミンが言及した一冊。自身の“So What(BTS の曲名)”を考えてみたとして本書をあげ「年を取ったとか若いとか、年齢に基準を置かないで」というメッセージが込められているとシェアした。その後 ARMY(ファン名)を中心に「今を楽しみ、現在を充実させよう、という本書のメッセージが心に響いた」「私にぴったりの本」と話題になり、韓国のオンライ
ン書店 インターパーク“도서”エッセイ部門のベストセラーとなった。

邦訳版情報解禁 後、数時間でネット書店 SOLD OUT。Amazon カテゴリベストセラー1 位!発売前増刷が決定

 本書翻訳版の情報がを解禁するや SNS を中心に拡散され Amazon、楽天ブックスなどネット書店では予約注文が殺到し品切れ
に。急遽発売前増刷が決定した。Amazon のイギリス・アメリカのエッセー・随筆カテゴリではベストセラー1 位を獲得するなど、注目を集めている。

桂冠詩人がみつめる、老いと死と人生。“今”を自分らしく生きていく方法

 50 冊以上の著作を執筆し 2018 年にこの世を去ったドナルド・ホールが自身の老いや暮らし、死について滔々と語られている本作。“老いは未知で、予期できない銀河系でありつづけるが、人生は依然として自分のもので、そしてそれは続いていく。その人生もまた輝いて美しい”と語る。
誰もが迎える“死”や“年を取ること”についてありのままの現在を見つめる桂冠詩人のまなざしは、“今”を自分らしく生きていく方法について、さりげなく教えてくれる。

〈以下本文抜粋〉

 ***

窓辺から

 今日は1月の月のなかほど、昼のなかほど。そして、ここはニューハンプシャーのなかほど。わたしは青い肘かけ椅子にすわって、窓の外を見ている。歩くとよろけるし、車はもう運転しないので、ずっと窓の外を眺めているだけだ。目を覚ますと、雪が降っていて、いまは10インチほど積もっている。予報では、1フィート半の積雪になるらしい。わたしがすわっているところには、3つの窓がある。まんなかのは出窓で、大きい。外には小ぶりのポーチがあり、夏には日陰をつくり、冬には雪の吹きこみを防いでくれる。ここから40ヤードほど離れたところには牛舎として使われていた小屋があり、強風にあおられた帆船のように揺れている。下見板のちょうど目の位置に餌箱がかかっていて、わたしはそこに鳥がやってくるのを見ている。冬のあいだ、ユキヒメドリやシジュウカラはいつもそこで餌をついばむ。今日のような雪の日、餌箱は十数羽の鳥の重みでたわむ。ゴジュウカラ、シメ、オウゴンヒワ、スズメ。彼らは枯れた木の枝からやってきて、小さな嘴で上手に種をついばみ、また枯れた木の枝へ戻っていく。
 リスは毎日のように鳥から食べ物を奪いにくる。もちろん、それを咎めるつもりはない。が、なにしろバスケットボールのポイントガードなみの敏捷さを持つ動物だ。天気のいい日には雪だまりからポーチにやってきて、祖父母が玄関の側柱に釘で打ちつけた錆だらけの馬蹄に足をかけ、細長い身体をのばして、餌箱に寄りかかる。そのせいで餌箱が横に傾き、ほとんどの鳥は怖がって逃げてしまうが、なかにはひるまずにがっつきつづけている猛者もいる。今日はリスがいない。彼らは深い雪の下の穴に隠れている。鳥たちは大騒ぎをしながら餌をついばんでいる。

 陽が翳っても、雪は降りつづいている。午後4時のたそがれどき、鳥はいない。みなどこかで眠っているのだろうか。いや、そうでもない。1羽のゴジュウカラが最後の1粒の種を求めて舞いおりてきた。小屋の輪郭はぼやけている。それは1865年に建てられたもので、わたしは一年中毎日それを眺めている。数年前、特に雪の多かった冬には、倒壊するのではないかと思った。雪が古いこけら板の上に1ヤードほど降り積もっていたが、それを取り除いてくれる家人はいない。屋根は脆く、勾配は危険なほど急だ。気を揉んでいるうちに、友人たちがやってきて、あぶなっかしい足場にもかかわらず、みんなで雪おろしをしてくれた。それで、翌年の夏には職人を雇って、こけら板の上にトタンを打ちつけてもらった。トタン張りだと、雪は屋根から下に滑り落ちる。小屋の手前にある車庫の尖った屋根には、上から3分の1くらいのところまで雪が1フィートほど積もっている。その下の雪はすでに軒下に落ちている。屋根のてっぺんの金属部分の雪は、氷河の崖のようにぎざぎざになっていて、いまにも崩れ落ちそうだ。夕方の青みがかった空気のなかで、それは巨大なケーキの上にのっているバニラ・アイシングのように見える。いつか巨大な手によって削りとられるにちがいない。
 (中略)

 わたしの母は60年近く住んでいたコネチカットの家で90歳になった。その最後の10年は窓の外を眺めて過ごしていた(父の享年は52)。母の誕生日に、わたしは妻のジェーン・ケニオンとともに早めに母の家を訪ねた。12時ごろには、わたしの子供と孫たちがやってきて、ルーシーおばあちゃんを驚かせた。われわれはハグしあい、笑いあい、写真を撮りあったりした。母は最初のうちこそはしゃいでいたが、ほどなく疲労の色を濃くしはじめたので、わたしは子供や孫たちをそれぞれの部屋にさがらせた。母はお気にいりのリクライニング・チェアにもたれかかり、気力が戻ってくるまで目を閉じていた。そして、その数カ月後に、鬱血性の心不全に見舞われ、救急車でイェール・ニューヘブン病院に運ばれた。わたしがジェーンといっしょにニューハンプシャーから駆けつけたときには、自宅へ戻っていて、「本当は救急車なんて呼びたくなかったのよ」と言った。母は喜びでありプライドでもあった一人暮らしができなくなったことを知っていた。われわれは母をニューハンプシャーの自宅近くの病院に併設された介護施設へ移すことにした。
 母は91歳になる1カ月前に亡くなった。頭はまだしっかりしていた。息をひきとる1週間前には、『マイ・アントニーア』を読むのは10度目だと言っていた。ウィラ・キャザーは昔から好きでよく読んでいたが、年をとってからの愛読書はアガサ・クリスティーだった。なんでも、90歳になることの利点のひとつは、同じ推理小説を何度も読めることらしい。最初に読んでから2週間後には、誰が犯人だったかまったく忘れてしまっているからだ。それでも、母の最後の数カ月は不憫だった。関節炎のためにベッドと椅子から離れることができず、まともな食事をとることもできなかった。母が亡くなるまで、われわれは毎日介護施設を訪れた。1年後、47歳で白血病を患い死の床にあったジェーンが、発病するまえに書きためていた詩を見せてくれた。そのひとつが、母の最期をテーマにした〈老人ホームにて〉だった。そこでは、大きな円を描いて走っている馬のイメージが使われていた。円は徐々に小さくなり、そして最後に馬は足をとめる。

20年後、わたしの円はごく小さくなった。季節がめぐるたびに、バランス感覚が崩れていき、ときどき転ぶようになった。自分ではもう料理をしない。男やもめには電子レンジ料理がいちばんだ。指は思うように動かず、服のボタンをとめるのも容易ではない。この冬は頭からかぶる分厚いセーターを着ている。母は最後の10年をカフタン風の部屋着で過ごした。何年ものあいだ、わたしは車をゆっくり慎重に運転していたが、80歳のときに二度事故を起こした。それで、誰かを轢き殺すまえに運転をやめ、買い物をしたり病院に行ったりするときには、誰かの車に乗せてもらうようになった。詩の朗読会のために飛行機を使わなければならないときには、車で1時間のところに住んでいる友人のリンダ・クンハートに空港まで連れていってもらい、車椅子でセキュリティ・チェックを受ける。詩の朗読をするときも椅子にすわったままだ。絵を見たいときには、美術館で車椅子を押してもらわなければならない。新しい詩はもう書けない。メタファーや押韻の奇跡はもう起きない。散文ならなんとかなる。わたしの円はどんどん小さくなっていく。老いは喪失の儀式だ。それでも、47歳や52歳で死ぬよりはいい。衰えをただ嘆いているばかりでは何も達成できない。日がな一日、窓辺にたたずみ、鳥や小屋や花を見るのを愉しんだほうがいい。自分がしていることを書くのは歓びだ。

 何世代にもわたって、わが家の老人たちは、この窓辺にすわって過ぎゆく年を見つめていた。ここには子供たちが生まれたベッドがあり、その子供たちは80年後に同じところで死んでいった。祖母のケイトは97歳まで生きた。その娘であるわたしの母が“早死に”したのは、最初はフィルターなしのチェスターフィールドを、そのあとはフィルターつきのケントを1日に2箱ずつ喫っていたからだ。母は煙草に感謝していた。煙草のおかげで認知症にならずにすんだのだからと言って。老いるまえ、祖母は窓から5マイル南にそびえるカーサージ山をよく眺めていた。いま同じ方向に目を向けても、針葉樹が高くなって視界を遮っているので、三角形の底辺の裾しか見えない。祖母が子供のころは、楡の木が山裾の視界を遮っていたという。それは国道4号線の両側に植えられ、道路の上に覆いかぶさるように大きく育っていたらしい。94歳のとき、祖母は窓の外のポーチでつまずき、脛を骨折して入院した。それまで出産のとき以外は入院したことなど一度もなかったのに。それは大きな心の痛手だったにちがいない。3年後、ピーボディ老人ホームで、わたしは彼女のそばにすわり、途絶え途絶えの息の音を聞いていた。臨終の際には、その手を握っていた。
(中略)

 子供のころ、わたしは誰よりも老人が好きだった。ニューハンプシャーに住んでいた祖父は、わたしがお手本にしていた人間だった。いまから考えると、そんなに年をとっていたわけではない。わたしが干し草づくりを手伝っていたときは、60代から70代の始めで、亡くなったのは77歳のときだった。けれども、そのころはずいぶんな年寄りだと思っていた。祖父は昔ながらの零細の兼業農家だった。ライリーという馬を持ち、牛と羊と鶏を育て、ミツバチを飼い、メープルシロップをつくっていた。一年中、ほとんど毎日午前5時から午後7時か8時まで働いていた。搾乳、羊の出産の世話、フェンス張り、樹木の伐採、肥料の散布、植えつけ、除草、干し草づくり、収穫、そして夜になると、鶏をキツネから守るために家畜小屋の施錠。わたしが仕事を手伝っていた夏の夜には、よく思い出話を話して聞かせてくれた。一年中、いっときもじっとしていることはなく、昔のことを思いだしたり、昔学校で覚えた詩をひとりごちるように朗読するときには、いつも人のよさそうな小さな笑みを
浮かべていた。

 老人が大好きだったときは過ぎ、自然の理として、わたしもいつのまにか老人になってしまった。あっという間に10年ずつの歳月が積み重なっていた。30代は恐るべきものだった。40代は飲んだくれていたので、よくわからない。50代は至福のときで、人生の大きな転換点となった。60代は50代の至福のときの延長から始まった。そして、癌。ジェーンの死。何年ものあいだ、わたしは別の宇宙をさまようことになった。どんなに注意していても、この先何が起きるかわかっていると思っていても、老いは未知で、予期できない銀河系でありつづける。そこにいるのは異星人であり、老人は別の生命体といっていい。肌は緑色で、頭はふたつあり、それぞれに触角が生えている。世のなかには感じのいい者もいるし、逆に感じの悪い者もいる。スーパーマーケットで買い物をしているご婦人は決してわたしのために通路をあけてくれない。が、何より大事なのは、老人は永遠に他者だということだ。80歳になると、自分がこの世のものとは思えなくなる。自分が老人であることを一瞬忘れたとしても、立ちあがろうとしたときや、若者と出会ったときに、緑の肌や余分な頭や奇妙な突起物を思いださずにはいられなくなる。
(中略)

 春が来て、餌箱を取りはずし、納屋にしまいこむころには、いろいろな鳥が戻ってくる。太ったコマドリ、コマドリにちょっかいを出すカケス、ウグイス、赤い羽のクロウタドリ、ツグミ、ムクドリ……山鳩は草むらのなかで餌をついばむ。コマドリは冬のあいだに荒れた巣を藁や小枝や糸くずでせっせと修繕する。そして、そこで産卵し、孵化すると、食べ物を探しにいき、巣で待っている3つか4つの小さな嘴に分け与える。ほどなく雛は立ちあがり、羽を広げ、周囲の様子をうかがい、そして飛び立つ。ほっこりとした気持ちになって、窓の外の遠くのほうに目をやると、樫やカエデの木の枝のそこかしこに巣があるのがわかる。草地では、真っ黒なカラスが餌をあさっている。なんとも不思議で興味深いのは、ポーチの近くでブンブンという音を立て、羽をはばたかせているハチドリだ。ジグザグに動きながら、タチアオイの花を突っつき蜜を吸っている。
 年によって多少のずれはあるが、だいたいは3月下旬から4月にかけて、花が次々に咲き、しおれていく。スノードロップが冬の土を割り、クロッカスやスイセンがそれに続く。チューリップは鮮やかな赤や黄色の肉厚の花をつける。6月には、ポーチのはずれにシャクヤクが咲く。つぼみは緑色だが、膨らんでくると、羽の生えた白いサッカーボールのようになる。そして、豪雨が花に降りそそぐ。スズランの群生もある。庭の向こうの古い一重のバラの茂みは、年によって無数の花をつけたり、ほとんど咲かなかったりする。最初は白、つづいてピンク、そして赤。2世紀前に牛の通り道の脇に咲いていたのと同じように、いまは道路の側溝の脇に咲いている。
(中略)

 夏のあいだは、フォックスグローブ、スイートアリッサム、タイマツバナなどの花が次々に咲いてはしぼむ。2羽の野生の七面鳥がゴロゴロと喉を鳴らしながら小屋へ続く坂をのぼってゆくのが見える。4羽の子供たちが遅れないように懸命にあとを追っている。その先の丘の斜面には、カンゾウの花が咲き誇っている。鮮やかなオレンジの野の花で、溝や地下室のまわりの空き地にも生えている。夏の終わりには、ヤナギトウワタがすっくと立ちあがる。秋にはヤグルマギクが花開き、カエデが赤く染まりはじめる。

 季節を問わず、わたしは小屋を見ている。1月には雪ごしに、8月には板壁に立てかけられたトレリスに巻きついたバラの蔓ごしに。夏の盛りにも、11月のつるべ落としの夜にも。椅子にすわって、西の空を見ると、夕日を浴びて、ゴージャスな琥珀色に染まり、黒みを帯びた蜂蜜のように見える。未塗装の板の下のほうは暗いが、上にいくと黄褐色になり、陽の光をどこよりも長くとどめている。小屋のはずれには窓があり、そこから馬が首を出して、国道4号線を行き来するピックアップ・トラックやフォードの数をかぞえている。わたしは小屋の傾いた屋根に目をこらす。傾斜の幾何学、対称と非対称。限りない喪失と奪還。80年のあいだに、それは作業をするための小屋から見るための小屋に変わった。道路の向こうには、国道4号線がグラフトン・ターンパイクにつながったときに植えられた楡の老木が見える。150年の歳月は緑の若木を胴枯れした老木に変えた。わたしは窓から白い風景を見ている。色はうつろう。淡い緑、深い緑、黄色、赤、枯れ枝の下の茶色。そして、ふたたび雪が降る。

 ***

【目次】
窓辺から
80 を過ぎた詩人のエッセイ
奇妙なくらいに楽しい一本の道を行く
朗読会での「サンキュー、サンキュー」
わたしがはやした三度のヒゲ
みんな煙草を喫っていた
ワシントン D.C.の雪男
運動オンチのエクササイズ
博士と呼ばれたって
死について2、3思うこと
採用と不採用の狭間で
ドアのない家
おわりに

【書籍概要】
書名:死ぬより老いるのが心配だ 80 を過ぎた詩人のエッセイ
著者:ドナルド・ホール
訳者:田村義進
刊行:2022 年 2月7日
判型・ページ数:四六版/204 頁
定価:1,540 円
刊行:&books(辰巳出版)

ドナルド・ホール
1928年9月20日‐2018年6月23日。アメリカの詩人、作家、編集者、文芸評論家。児童文学、伝記、回想録、エッセイなど、22の詩集を含む50冊以上の著作がある。フィリップ・スエクセター・アカデミー、ハーバード、オックスフォードを卒業。2006年、米国議会図書館の第14代桂冠詩人コンサルタントに任命される。1980年のコールデコット・メダルを受賞した絵本「にぐるまひいて」(ほるぷ出版)の原作者でもある。

田村義進 (訳)
英米文学翻訳家。訳書にキング『書くことについて』(小学館文庫)、カッゲ『静寂とは』(辰巳出版)、クリステ ィー『メソポタミアの殺人 新訳版』(ハヤカワ文庫)、 ムカジー『マハラジャの葬列』(ハヤカワ・ミステリ)ほか多数。

辰巳出版
※この記事の内容は掲載当時のものです

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