妻が遺した日記と手紙300通……そこに綴られていたものとは 『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』試し読み

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細胞生物学者で歌人でもある永田和宏さんよる手記『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』が刊行。妻が遺した日記と手紙300通を見つけた夫が初めて明かす、若き日の出会いと命がけの愛の物語だ。今回は、その中から「はじめに」を公開する。

はじめに

 二〇一〇年八月十二日、歌人河野裕子が乳がんのため亡くなった。六十四歳。私の生涯のパートナーであった。河野に乳がんが見つかってから、亡くなるまでの十年に、私たち家族が向き合 うことになったさまざまについては、前著『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』(新潮文庫)に書いているが、正直、厳しく辛い時間であった。

 病気、再発の怖れなどが為せる業ではあったが、河野の精神的な不安定、攻撃性に家族が振りまわされることになった。しかし、河野は最後まで歌を作り続けた。殊に再発し、自宅で過ごすことになった最後の日々は、自ら鉛筆を持つ力がなくなると、ぼつぼつと口から言葉が出てくるようになり、そこに居る家族がそれを書きとめるという形で、歌が生まれて来るのだった。苦しい息の間で、ごく自然に言葉が紡ぎだされてくるその作業は、どこか神聖な静寂をさえまとっているようでもあった。そんな作歌は河野の死の前日まで続き、そのようにして数十首の歌が遺されることになった。歌人として見事な最期であったと思っている。

 長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ 八月十日

 さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ 八月十一日

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 八月十一日(絶筆) 

 河野裕子が亡くなったあと、河野の実家に行って遺品の整理などをしていたら、押し入れから手紙のぎっしり詰まった箱が出てきて、驚いた。私から河野に宛てたもの、河野から私に来たもの、あわせて三百通は優に超えているだろう。

 箱の蓋には、みのむしの絵が描いてあった。そういえば、彼女は、私のことをいつも「みのむし」と言っていたのだった。みのむしから来た手紙という積もりだろう。みのむしの絵の下に「さま」と書いて、手紙が来たこともあったし、結婚してからは、人によく「うちのみのむし亭主」などと紹介していた。みのむしみたいに、風に吹かれてゆらりゆらりとどこへ行くかわからない男、くらいの意味だったのか。

 手紙は、出会った最初の頃のものから、結婚するまでの五年分である。よく残っていたものだ。河野がひそかに保管しておいたものなのだが、驚いたのは、私が河野に書いたものだけではなく、河野から私に来たものも、(たぶん)すべて残っていたことだった。すっかり忘れてしまっていたが、私自身もそれらをすべて保管していたのだろう。結婚した後に、河野が一緒にして蔵(しま)っておいたのである。生前にはついにそんな話をしたことがなかったのだが……。

 この往復書簡は、河野が亡くなって三年後、「もう一度だけラブレター」という「文藝春秋SPECIAL」の特集号(二〇一三年秋号)に、出会いからの一年分の抜粋が紹介された。一年分の、それも全部ではなかったが、それでも四〇ページ分にもなる量で、自分でも驚いたものだ。この特集のもう一つの柱は、石原裕次郎とまき子さんのラブレターであり、これもちょっと驚き。「ほう、石原裕次郎と永田和宏ね。 いい組み合わせだ」と、まあ能天気なのである。

 この手紙とともに、河野の日記帳が十数冊一緒に見つかったのは、さらに驚きであった。河野 が日記を書いていたことは知っていたが、私と出会う前の高校生のときから、私と出会ってやが て結婚する前までの七年分くら い の時間が、そこには残されていた。

 しかし私は、長いあいだこの日記を開いてみることができなかった。いくら生涯を連れ添った 妻とはいえ、日記という誰にも知らせないままに書き綴った心のなかを勝手に覗いていいのか。 それになにより、私をどのように見ていたのかを知ることに対する怖しさも若干はあっただろう
か。

 一方、河野が亡くなり、一人の生活にもようやく慣れ始めたころになって、私のなかでひとつの思いが徐々に形を成し始めているのにも気づいていた。それは、果たして私は河野裕子にふさわしかったのだろうかという疑問である。

 先にあげた歌に見られるように、寂しかったけれどもあたたかかったこの世で、あなたに「会ひ得しことを幸せと思ふ」と詠い、自らの死後、誰にも長生きして欲しいけれど、そんな長く生きて欲しい何人かのなかでも「つひにはあなたひとりを数ふ」と詠ったのが河野裕子であった。彼女が終生、そして全身で愛したのが私であったことを疑ったことはなかった。河野の死後とい う長い時間を私が生きているのは、その確信に支えられてのことであるのは間違いない。

 しかし、翻って、私はその絶対的な愛にふさわしかったのか。河野はほんとうに私で良かった のか。他にもっとふさわしい選択はなかったのか。私に満足していてくれたのか。後悔をしたことはなかったのか。

 訊くことはつひになかったほんたうに俺でよかったのかと訊けなかったのだ 永田和宏(「短歌研究」二〇一九年四月号)

 時間の経過とともに、今さら考えてもしようがない、そんな疑問が徐々に頭をもたげ始めていたのである。

 たぶん河野の日記を読み始めたのは、そんな頃であろうと思う。

 それは私には、圧倒的な体験であった。

 日記と言っても、その日の出来事が書かれている部分は少なく、ほとんどが、その日その日、何を感じ、何を考えたか、その心の記録であった。そんななかで、一人の女性が、人を想う、人を愛するということにどれだけ一途であったかをまざまざと知ることになる。人を愛するということに、これほど一途になれる人がいるということに、そして、それをいきいきと自分の感性と言葉で書き残していることに、いまさらながら、感動に近い思いにとらえられたことを正直に告白しておきたい。

 日記には、私と出会う以前に作品を通してその存在を知り、たった一度の出会いによって、運命のように思いを寄せることになった一人の青年への思い、それが綿々と綴られていた。やがて、その青年への思慕の真っただ中で出会うことになってしまった私への思い、自らの意志から引きはがされるような私への傾斜、その葛藤と懊悩、それらが繰り返し、リアルに綴られていた。あまりにも深く悩み、往々にして、私と会っている最中に倒れてしまうまで思い詰めていた河野の苦しみがどのようなものであったか、当事者のひとりが自分であることを忘れて、まるで小説かドラマのように引き込まれてしまったものだ。それが私にもっとも身近な人であったこと、しかもその一途に思い詰めている対象の一人が私自身であったということに、粛然とした思いをさえ抱いたのであった。

 わたくしはあなたにふさはしかったのかそのために書き、書き継ぎてなほ 永田和宏(「短歌」二○二一年八月号)

 きみの日記きみの手紙が書かせたるきみの一途を残さむとして

 何ゆゑにここまで書くかと自らに怖れつつ書き、書きなづみゐき

 知らぬまま逝ってしまつた きみを捨て死なうとしたこと死にそこねたこと

 本書は雑誌「波」に一年半にわたって連載したものであるが、ようやくその連載を終えたとき、私はこのような歌を発表した。私の思いのすべてがこれで伝わるものでもないが、なぜ、ある意味不様な私の、そして河野裕子との青春を書き残そうとしたのか、その一端は汲み取っていただけるのではないかと思う。「何ゆゑにここまで書くか」は、稿を進めつつ往々にしてとらわれた思いであったが、河野の日記や手紙をそのまま出す以上、少しでも脚色があってはならないし、伏せる部分があってはならないと、それは河野への責任の取り方でもあると思ってきた。

 この連載を書き進めつつ、これを小説という形式ではなく、当事者が事実を述べていくという形で書かざるを得ないことに、何度も強い困難と逡巡を感じることになった。しかしとにかく、日記と手紙という〈資料〉に忠実に、私と河野裕子の出会いからの、どこかとことん熱く、波瀾ばかりだったような気のする、ある意味とても恥ずかしい青春の記を書き終えることになった。冒頭の数章は、河野と出会う前の私の幼年時代からの物語だが、なぜ河野裕子が私にとってかけがえのない存在となったのかは、実は私の幼年時代を外しては、うまく語れないと思っており、序章といったつもりでお読みいただけるとありがたい。

 私だけの回想記ではなく、私と河野裕子との二人の目から見た、私たちの青春の記ともなっていればうれしいことであり、この一書を出すととの意味でもあるだろう。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

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