【全文公開】「戦争」という言葉は使用禁止…言論弾圧下でロシア語圏作家が語ったこととは

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 今なお終わりの見えない、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻。最初の攻撃が起きた2月24日以降、ロシア語圏の作家たちは日に日に強まるロシアの言論弾圧にも屈せず、この状況に対して様々な行動を起こし、発言してきた。
 日本でもよく知られている小説家リュドミラ・ウリツカヤは一貫して反戦の声を上げ続け、ノーベル文学賞受賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは「ベラルーシ人の義勇兵こそが英雄だ」と答えたという。
 今回、ロシアから届いた生の声を伝えてくれるのは、高校卒業後に単身ロシアに渡り、当時の経験を昨年『夕暮れに夜明けの歌を』にまとめた気鋭の研究者・翻訳家の奈倉有里氏。歴史に残すべき、貴重な記録の全文を以下で紹介したい。
「新潮」2022年5月号掲載「無数の橋をかけなおす――ロシアから届く反戦の声」から)

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最初の衝撃

 2022年2月24日、現地時間の早朝、日本時間の昼過ぎに飛び込んできた「ロシア軍がウクライナ各地を攻撃」という報道。慌ててロシアの独立系放送局「ドーシチ(雨)」をつけると、コメント欄は衝撃と恐怖と自責と絶望の叫びで埋め尽くされていた――「悪夢だ」「誰かあのクレムリンのクソ野郎を止めろ!」「みんな、いますぐ街に出て抗議しよう!」「戻れ、引き返せ!」「いっそここを、モスクワを攻撃してくれ!」「どうしよう」「もうおしまいだ」「私たちが悪いんだ」「誰か嘘だと言って」……。
 このとき、まだ予想される被害の規模はわかっていなかった。ただ「ウクライナ東部のロシア系住民を助ける」という名目を耳にタコができるほど繰り返していた政府が、早朝五時に首都キエフ(キーウ)に攻撃を仕掛けるなど、決してあってはならない行為だ。ロシア政府の主張の通り「軍事施設だけ」で終わるとは思えない。あちこちで「6月22日、朝4時ちょうどにキエフが爆撃され、僕たちは告げられた――戦争が始まったと」という歌が引用されている。第二次世界大戦開戦をうたった戦時中の流行歌『6月22日、朝4時ちょうどに』(1941)だ――「戦争は明けがたに始まった、よりたくさんの市民を殺すために。親も寝ていた、子供たちも寝ていた、キエフの爆撃が始まったとき……」。遠く悲しい戦争の記憶。八一年後、まさかロシア軍がキエフを爆撃することになるなんて、誰が予想しただろう。
 ペテルブルグやモスクワの友人の顔が浮かぶ。ロシア人もウクライナ人も、両方に出自を持つ友人もいる。彼らに連絡をとると、聞こえてくるのは悲痛な声ばかりだ――「テレビをつけると朝から晩までプロパガンダで、それがとにかく怖い。いままでもそうだったけど、いまは常軌を逸してる」(モスクワ在住だがウクライナ紛争地域の近くに祖父母がいる友人、母がウクライナ人)。「ただひとつの救いは、もうプーチンが破滅するのは間違いないっていうことだ。すべての侵略者は破滅する。でもそのときまでに、いったいどのくらいの血が流れるんだろう……」(ペテルブルグの友人)。「すべてを飲み込む権力闘争の果てに、一般の人が大量の血を流す……まるで政府がロシアとウクライナの市民全員を巻き込んで、無理心中をしようとしてるみたい……」(モスクワからフランスに移住した友人)。「これまでなにをしても政府を止められなかったんだから、いまさら止められないのはわかってる。でもだからといって『自分がやったんじゃない』なんて言えない。僕たちがやったんだ。これから一生、これを抱えて生きていかなきゃいけない。もし生きていられるとしたらだけど……」(モスクワの映画関係の友人)。なにかしなくてはという思いと、あまりに無念な思いが絶え間なく交差している。

溢れだした反戦声明

 翌25日。独立系報道機関は24時間休まず放送を続けている。文化、芸術の各団体が、戦争反対の表明を次々に出した。私の好きなオレグ・バシラシヴィリ(1934~)もいた――1986年の名作『メッセンジャー・ボーイ』の教授役や、2005年の『巨匠とマルガリータ』の悪魔ヴォランド役などで知られる俳優だ。ほかにも、以前は立場的に反政府の声をあげられなかったような大物俳優や映画監督、美術館・博物館関係者のトップも名を連ねている。学者も、小中学校の教員も、非営利団体のグループも、IT企業の役員もいる。彼らがこれまで声をあげられなかったのは、反政府の表明が即解雇につながるようになって久しいからだ。とりわけ2014年のクリミア併合以降はその傾向が決定的に強まった。たとえばモスクワの映画博物館の館長が解雇されると、それに抗議したすべてのスタッフも同時に解雇あるいは自主退職に追い込まれ、専門知識のない館長とスタッフが役人仕事をするだけの施設になってしまった。そういう現象がそこかしこの芸術・文化・教育団体で起こっていた。なかでも教育機関の関係者は苦しい立場にいた。たとえば大学教員なら、自分が解雇されてしまえば、それまで指導していた学生が自分の代わりにきた専門知識のない教員に教わらなければならなくなる。それを避けるためには表面的にでも政府賛同の表明をしなければならない――そんな苦しい年月が8年も続いていた。
 それでも今回の侵攻を受け、たとえ自分が解雇されようと逮捕されようと黙ってなどいられない人々が各団体の上部にこんなにたくさんいる――このことは、街角で声をあげてもただ警官に暴力的に拘束されるだけの一般市民にとって心強い状況に思えた。独立系メディアはオンラインで各分野の専門家を招き、「一刻も早く侵攻を止めさせるには」「ウクライナの犠牲者を少しでも抑えるには」「政府に異議を突きつけるには」どうしたらいいのかを語りはじめていた。

絶望のロック、語りかけるラジオ

 ソ連末期から現代までロックシーンのトップを駆け抜けてきたDDTは27日、トゥーラでのライヴを予定していた。ステージに出てきたリーダーのユーリー・シェフチューク(1957~)は現状を強く批判し、「楽しい曲など弾けるわけがない」とライヴの曲目をすべて変更し、悲しい曲、絶望の曲、戦争の曲ばかりをひたすら弾き続けた。オフィシャルチャンネルには開戦直後に『厄災』(1993)という曲を再アップしていた――「厄災が降りかかった、火に水をかけるように。厄災が窓ガラスに顔を押しつけ、家のなかを覗いている。気が狂いそうだ、気が狂いそうだ!」……。コメント欄には曲を聴き涙するファンのメッセージが数多く書き込まれ、そこにはウクライナのキエフの人もドンバスの人も、モスクワの人もロシアの地方都市の人もいた。ロックに国境はない。皆が一緒に悲しみの声に耳を傾けている。
 作家のドミートリー・ブィコフ(1967~)は、独立系ラジオ局「モスクワのこだま」でトーク番組を持っており、25日にも放送予定があった。広範な文学知識に基づいた自由闊達で縦横無尽な文学講義に定評があるブィコフは、かねてから反政府的な発言でも知られており、2012年の野党調整評議会投票では政治活動家のアレクセイ・ナヴァーリヌィに次いで第二位の票を獲得していた。しかし2014年に弾圧が厳しくなると、ブィコフはリュドミラ・ウリツカヤをはじめとする作家やDDTなどのミュージシャンとともに「民族の敵」として糾弾された。そして2019年、文学講義のために各地を回っていたブィコフは飛行機の中で急激な不調を訴え、政治活動家などが暗殺されたときと非常によく似た症状で緊急入院した。しかしその後、本人はその理由に深く言及することなく、入院中になんと病院から文学講義をはじめ、じきにそれまで通りの活動に復帰した。劇薬を使った毒殺未遂であったことが元連邦保安局員の証言によって判明したのは2021年の6月になってからだった。
 2月25日のラジオでブィコフは、現政権がいかに恐ろしい道に踏み込んだかを語り、キエフにいる友人や尊敬する人々の無事を願い、「ロシア政府で権力を握った人間は、まさかこんなふうに世界中の人間を踏み躙り、すべての意味のあるものが意味をなくし――人を、神の探求も対話も芸術も、あらゆる価値あるものに取り組めない状態にし、ただ恐怖と憎しみに震える獣に変えてしまうような、そんな状態にすることが目的だったというのか。ほんとうにこんなことが目的なのか?!」と強く政権を批判しながらも、困惑するリスナーの質問に対し、「アメリカとロシアのどちらが酷いか競争してはいけない。他国をみるなら、より良いと思うような国を見つけたときに、その『良さ』を競えばいい」「なにを読んだらいいかというなら、ウクライナ文学を読もう。〔…〕セルゲイ・パラジャーノフの映画を、『忘れられた祖先の影』〔邦題『火の馬』、1964〕を観よう」と語りかけた(シーシキンの「すばる」「新潮」初出の記事と最新の寄稿をまとめた『ウクライナとロシアの未来――2022年のあとに』は、岩波書店noteで公開中)。

恐れていたこと

 リュドミラ・ウリツカヤ(1943~、『緑の天幕』前田和泉訳、新潮社、など)は開戦直後に「痛み、恐怖、恥」と題した声明を出した。生命が潰されていく痛み、自らや子供たちや孫たちの命が危険にさらされる恐怖、全人類に大きな損害をもたらした政府の恥と、国民の責任。
 ウリツカヤはこれまでも一貫して戦争に反対し、抵抗の声をあげてきた。「民族の敵」と糾弾されても、カラーボールを投げつけられても、彼女は黙らなかった。2014年に反戦デモに参加したときは、「私が反戦の声をあげるのは、私が強いからじゃない。弱いから、恐ろしいからだ。子供や孫たちが、戦争のある世界で生きていくことになるかもしれないと思うと、怖くてしかたないからだ」と話していた。
 私は『陽気なお葬式』(拙訳、新潮社)を訳して以降、翻訳者に親切な彼女の厚意に甘えて何度かお話を伺った。最後にインタビューをしたのは昨年の1月。文学の話も社会の話も訊いたが、ロシアの社会については「どんどん狭量になっている」と語っていた。異なる出自や思想の他者を排除しない寛容な社会のため絵本プロジェクトを指揮し、子供の教育を変えようとしていたウリツカヤ。だが寛容から遠のくばかりの社会に、近年では疲れを口にすることもあった。そしていま、彼女が最も恐れていたことが起きている。もうすぐ80歳になる彼女の「痛み」を思うと、言葉に詰まる。

人権弾圧と戦争

 3月になった。近づく春の香りにはどこか物悲しいところがあるが、こんなに悲しい春があっていいのだろうか。ブィコフは、2月25日のラジオでブィコフは「すでにモスクワでも平和を訴えた人が1000人以上逮捕され、わずかに生き延びていた報道機関も制圧され、『戦争に反対する可能性がある』だけの人々の自宅にまで警察が押しかけて逮捕しようとしている」と語っていた。弾圧の規模が大きくなるのはわかっていた。侵略に踏み出した政府は、もはや体面など構っていられなくなっている。ヘルメットに防護服という物々しい姿の警官が、「反戦」を訴える人々を片っぱしから連行していく。地区により差があるが、ペテルブルグはとりわけ酷く、路上で警官が市民に暴力を振るう様子が複数みられた。
 さらに反戦どころか「戦争」という言葉そのものが禁止され、国営放送では「ロシア軍はウクライナの平和のために、安全に配慮した『特殊軍事作戦』をおこなっている」「ウクライナにおける民間人殺害はすべてウクライナの自作自演で、西欧を味方につけるためなら、彼らはなんでもするのだ」といった報道が繰り返された。
 ウクライナの市民にとってはロシア軍こそが明白なファシストに映り、「抵抗は聖戦」と教えられてきた人々は命を投げ打って立ちあがり、政府はそれを全力で奨励する。遠い昔となった第二次大戦での従軍経験を持つ国民はほぼおらず、戦争の恐ろしさよりも美談ばかりが教えられてきた。冒頭で引用した歌はこう続く――「ウクライナの民衆は立ちあがった。男はみな、一人残らず戦闘に向かった」……。あの歌の「優しい」声。遠く悲しく「美化された」戦争。ロシアの国内向けプロパガンダは「ロシアがナチスと同じことをするわけがない、やはり西欧化しファシズム化したウクライナの自作自演なのだ」と主張する。「自分の国は基本的に善良なはずだ」と信じたがる人々を国家が操るのは恐ろしく容易い。「独裁国家にとって戦争の目的は戦争という状態そのものだ」「人々が武力に心を支配されている状態は、すべての独裁者と軍国主義者にとっていちばん都合のいい、最も国民を操りやすい状態だ」というロシア出身スイス在住の作家・シーシキン の言葉を思い出す。シーシキンは2014年の時点で、「ウクライナとの戦争はロシア政府にとって、国内の平和運動や人権運動を潰すための格好の機会」だと警告していた。その後、実際に8年をかけて平和運動や人権運動の撲滅は徹底的におこなわれてきた。侵攻の直前、昨年末にロシア政府がとった行動が人権団体「メモリアル」の弾圧であったという事実はあらためて重い(シーシキンの「すばる」「新潮」初出の記事と最新の寄稿をまとめた『ウクライナとロシアの未来――2022年のあとに』は、岩波書店noteで公開中)。

抑え込まれる声

 3月5日、ロシア政府は「フェイクニュース禁止法」を施行した。公式見解に反する報道を「フェイク」として規制する動きはこれまでにもあったが、今回は同時に「軍事行動の停止〔つまり反戦・停戦〕の呼びかけや、軍の名誉や信頼を傷つける活動」すべてを取り締まることが目的だ。独立系報道機関は選択を迫られた。生き残りたければ、これまで「反戦」の表明をした番組アーカイヴをすべて削除し、今後も政府見解と異なる報道は一切しないという条件を飲まなければならない。ブィコフの番組を放送していた「モスクワのこだま」局と、サーシャ・フィリペンコが作家になる前に勤めていた「ドーシチ」局がどちらも活動停止に追い込まれ、日本時間の5日朝にはウェブサイトもユーチューブ上のアーカイヴも削除された。愛着のあった昔の職場が閉鎖に追い込まれたことを受けてフィリペンコは、「ロシアですべての報道機関が弾圧されてしまったのなら、僕たちができる限りその役割を担わなければいけない」と呼びかけた。実際、私の友人たちも長らく独立系報道機関を頼りに生きてきたし、現在では活動を停止された報道局の元局員などの個々人が発信する情報を各自が必死で追っている。戦争のさなかに信頼できる情報源がすべて潰されるなんて、どれほど心細く恐ろしいことだろう。家族や自分に軍の召集命令が来る可能性があると怯えている人も多い。報道機関として例外的に生き残ったのは昨年編集長がノーベル平和賞を受賞したばかりの「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙だが、むろん方針の変更を強制させられた――彼らは政府の条件を飲み、過去の記事や番組の多くを削除して報道を続ける決断を選んだ。
 報道機関だけではなく、文化・芸術団体も反戦メッセージを含む投稿をウェブサイトから削除させられていった。個人単位でも過去の投稿を削除する人が多く、なかにはアカウント自体を消してしまう人もいた。あんなに溢れていた反戦声明も、悲痛な無数のコメントも、まるでその事実そのものが存在しなかったかのようにインターネット空間から消されていく。さらにはインターネット回線自体を制限する方針も打ち出された。声をあげるどころか、学術アーカイヴにアクセスすることも、現地の友人の安否を確認することも、なにもできなくなるのだろうか、という暗い思いがよぎる。

西欧からの言葉

 ロシア国内の弾圧が進むなか、西欧在住の作家が中心となり、「ロシア国民に真実を」という声明を発表した。日本でも報道されたが、「国外在住でロシア語のできる人は、情報を制限されたロシア国内の人々に、手を尽くし真実を伝えよう」という主旨の呼びかけだ。署名にはアレクシエーヴィチ、ウリツカヤ、アクーニン、シーシキン、ソローキン、フィリペンコと、世界的に活躍する作家が並ぶ。私は、最も影響力が大きいと思われるノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948~)のその後の発言が気がかりだった。ちょうど一月に『亜鉛の少年たち――アフガン帰還兵の証言 増補版』(岩波書店、6月刊行予定)の翻訳を終えたばかりで、1990年代からの彼女の発言を読み漁っていたため、彼女の発言のある特徴が気になっていたのだ。
 3月6日、ラジオのインタビューに「ほとんど寝ていない」憔悴した状態で臨んだ彼女は、「英雄は誰か」という問いに、「難しい問題だが、ウクライナ人とウクライナのために戦うベラルーシ人の義勇兵だ」と答えた。以前の彼女の主張からは考えられない回答だが、同時に「やはり」とも思う。アレクシエーヴィチの言葉は時と場合に応じて変化が激しい。ベラルーシ人の父とウクライナ人の母を持つ彼女は、ノーベル文学賞受賞講演では「三つの家」としてベラルーシ、ウクライナ、ロシア文化を挙げた。だが三者の断絶が進む近年、ウクライナでは「幼少期を過ごしたウクライナが故郷」と答え、ベラルーシの講演では「もちろんベラルーシこそが故郷」と答えて喝采を浴びている。むろんそれが彼女のなかで同居しているにしても、常に「場」に応じた答えを口にしがちな傾向は以前からあった。弾圧でベラルーシ出国を余儀なくされて以来、彼女の「場」は西欧に移っていった。アレクシエーヴィチは周囲の人の声を聞き、それを届けることに秀でた人で、だからこそ他者の声を生き生きと伝え人の心を打つ作品を書いてきた。ただ、意見を求められると、場により異なる発言をするだけでなく、自著の登場人物の言葉を口にすることも多い。念のため言葉を補うなら、このことは彼女の作品の価値を貶めるものではない。かつてブィコフが詩人の分類に用いていた論を応用するなら、作家には思考を熟成させて作品を生み出し、自らの言葉を徹底して意識的に構築する「思弁家」タイプと、時代の空気をうつす周囲の言葉を敏感に察知しそれを集積して人に届ける「中継家」タイプがいるが、アレクシエーヴィチは徹底した「中継家」なのだ。いうなれば彼女の言葉は常にほとんど彼女の言葉ではないかのようですらある。受け手側は「ノーベル文学賞作家」の権威を鵜呑みにして聞くのではなく、その言葉の出てきた背景の言説を精査することが問われるのだろう。

俺たちの代弁をさせるな

 イスラエル在住の大衆作家ドミートリー・グルホフスキー(1979~、邦訳に『Metro2033』上下巻、小賀明子訳、小学館)も声明を発表した――「なぜロシア政府はこの戦争を『特殊軍事作戦』と呼べと俺たちに命じたのか。なぜならロシアでは、誰も戦争などしたくなかったからだ。みんな戦争を恐れていたからだ。なぜなら戦争とは生きた人間が家から出ていき、亜鉛〔の棺〕となって戻ってくるものだからだ。なぜなら戦争とは咲き誇る街があった場所を煙のたちのぼる廃墟に変えてしまうものだからだ」という言葉から始まり、あらゆる手を用いて国民からの支持を集めているかのように見せかける政府を批判する――「いまメディアのプロパガンダはすべての国民の額に〈Z〉の烙印を押そうと牙を剥き出しにしている。この同胞殺しの戦争の責任を、ヨーロッパの平和を乱した責任を、悪夢のような過去への逆戻りの責任を、プーチンとその体制から国民に転化するために。市民を盾にして、その後ろに隠れるために。〔…〕戦争責任をすべての国民に押しつけるため、政府は国民に支持されているかのように見せかけている。ロシア全土の80の地区で行政機関に〈Z〉の旗をつけた車を走らせている。カザンの小児病棟の死にそうな子供たちを集めて雪のなかで〈Z〉の人文字を作らせ、それを空から撮影している」。「けれども俺たちは、決して忘れてはならない――〈Z〉を支持するとは、ウクライナの平和な住宅に爆弾を落とし銃撃をするのを支持することなのだと。幾多の学校を爆撃したことを、200万人もの人が家を失い避難せざるをえなかったことを、兄弟のように仲の良かった人々の、2国の、つながりを、永久に絶ってしまったことを。〔…〕ウクライナの一般市民の血と、「演習」と聞かされて地獄に派遣されたロシア兵の血が、責任として俺たち皆に塗りたくられていく。これは俺たちの戦争じゃない。それを忘れてはいけない。声に出さなくてはいけない。あいつらに俺たちの代弁をさせてはいけない」。
 ここで注目すべきは、決して反体制を貫く発言をしてきたわけではないグルホフスキーが、2016年ごろから徐々に政府批判を公にするようになってきた経緯と、この声明の関係だ。シーシキンのように事実上の亡命の立場から発言ができた純文学系の作家と、ロシアの大衆に支持されてきた作家の立場は、同じ作家といえど決定的に違う。グルホフスキーの声明は、ロシアで「これまで政治には関わりたくなかったが、これはあまりにもひどい」と、数年前にようやく危機感を持ち始めた多くの一般市民と同質の声であり、だからこそ「いま政府の支持率が高まっているわけがない」「あいつらに俺たちの代弁をさせてはいけない」というその言葉の当事者性が伝わってくる。

無数のちいさな橋

 ロシア国内でフェイスブックやメッセンジャーが使えなくなると聞いて、人々は新たな連絡手段を模索していた。私もまた、現地の友人たちの住所や電話番号を確認し、WhatsAppやテレグラムなど比較的まだ生き残りそうなアプリで友人と連絡を取り合う。モスクワに住むウクライナ人の友人は言った――「いま、みんながこの恐ろしい事態に直面しながら、ちいさな架け橋を作り続けている。次から次へと、たくさんのちいさな橋をかけ、その橋に、悩み疲れ憔悴した弱々しい希望を託している」。そうだ、単に連絡手段を確保するというだけではない。惨事の衝撃で断たれてしまいそうになる思考の橋を、共に築いてきた文化の橋を、知恵を出し合い研究を進めていた研究者仲間とのつながりを、いま、このような武力によって失ってはいけない。どんな状況になっても私たちは互いに見つけ合い、手を取り合わなければいけない。

抵抗運動の遺産

 独裁下で市民の抵抗運動にどれだけの意味があるのか、という無力感に陥る人もいる。ベラルーシであれだけ非暴力に徹した大きな市民運動が起きても、なにも変わらなかったと。けれども2020年夏のベラルーシ大統領選後、大規模な不正選挙に抗議する市民への暴力的弾圧がなされていた当時、記憶に残っている日本の新聞報道がある。毎日新聞2020年8月26日朝刊の「受け継がれる『抵抗歌』」と題されたパリ支局の久野華代さんの記事だ。ベラルーシでは当時、ある歌が広くうたわれていた。その曲を耳にしたカタルーニャの人が、そのメロディーがフランコ独裁政権に抵抗した人々がうたっていた『くい』という歌と同じだと気づきはっとして、「ベラルーシの人々もいま『くい』を抜こうとしているのだろうか」と考えたという内容だった。一九六九年に作られたカタルーニャ語の『くい』という歌は、その後一九七八年にポーランド語に翻案され、このときタイトルが『壁』となった。それがさらに2010年にベラルーシ語とロシア語に翻訳された。「あるとき、遠く朝の光が差すころ、僕はじいさんと戸口に立ち、側を荷車がゆっくり進んでいた。じいさんが言った――『あの壁が見えるか。私たちはあの壁に囲まれて暮らしている。壁を壊さなければ、私たちはこのままここで朽ちていくだけだ』。/この牢獄を壊そう。あんな壁はあってはならない……」。さらに2020年の運動時は、「この状況は26年(ルカシェンコの大統領在任期間)というつらい年月のあいだ続いた」という歌詞も加わった。重ねた年月のぶんだけ、独裁政権下の犠牲者も増えている。この歌は少しずつ歌詞を変えながら、その重みを積み重ねるようにして、反独裁の歌としてうたわれてきたのだ。
 いま、ロシアの人々は団結して抵抗歌をうたえるような状況にはない。ごくちいさな市民団体までもが潰され、団結の術を次々に剥奪され、孤立させられている。けれどもベラルーシの市民弾圧に胸を痛め、我が事のように追っていたロシアの人々のなかには、独裁政権の手口にまつわる知識と、それに対する抵抗の手段が経験として積み重ねられている。社会学者のシュリマンは、3月中旬、ロシア政府がマスク着用の義務を解除したことに対し市民に警戒を呼びかけ、「ベラルーシ政府が街頭や交通機関の監視カメラの映像から弾圧の口実を見つけだしていたこと」を想起するように諭し、「マスクで身を守る」ことを勧めた。もちろん新型コロナウイルスからではない。マスクを着用することで少しでも個人の特定を避け、政府の弾圧から身を守るためだ。
 抵抗運動の遺産はいま、さまざまな形で受け継がれようとしている。

奈倉有里(なぐら・ゆり)
1982年、東京都生まれ。2002年からペテルブルグの語学学校でロシア語を学び、その後モスクワに移住、モスクワ大学予備科を経て、ロシア国立ゴーリキー文学大学に入学、2008年に日本人として初めて卒業し、「文学従事者」という学士資格を取得する。東京大学大学院修士課程を経て博士課程満期退学。博士(文学)。研究分野はロシア詩、現代ロシア文学。著書に、『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』。訳書に、ミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』、ボリス・アクーニン『トルコ捨駒スパイ事件』、アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』など。

新潮社 新潮
2022年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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