『戦メリ』を超える曲はもう目指さない ガン闘病中の坂本龍一の心境

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 音楽家の坂本龍一(70)が現在、ステージ4のガンとの闘病中であることは、前回の記事でお伝えした通り。これは文芸誌『新潮』7月号で開始した連載「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」で本人が明かしたものである。最近よく頭に浮かぶ言葉がタイトルの由来だというこの手記には、病状の深刻さとは裏腹に、どこかユーモラスで達観したようなテイストが漂っている。また、ファンにとっては興味深い音楽に関連するエピソードも多い。
 今回は、この中から、音楽にまつわる記述を一部、抜粋してご紹介してみよう。

気が狂いそうになった音楽、涙した音楽

 2021年1月、坂本は直腸ガンの最初の手術を受けた。その直後から悩まされたのが「せん妄」だ。もっとも酷かったのは、手術の翌日で、なぜか韓国の病院にいると思い込んでしまっていたという。他にも様々なせん妄に悩まされたというが、音楽と関係したこんなせん妄も。

「財津一郎の歌う『♪みんな まあるく タケモトピアノ~』のCMソングが、あの振り付けとあわせて延々とせん妄の中でリピートされたときは、逃げ場のない鬱陶しさで、さすがに発狂するかと思いました。決して好きなわけではない、それもかなり前に見たはずのCMなのになぜ突然出てきたのか、自分でも不思議でなりません」

 入院中、音楽が救いになったこともあったようだ。意外にもそれはカントリー・ミュージックだったという。

「入院中、息子がポストしていたある曲を何気なく再生したら、イントロから歌に入って何小節かで涙が止まらなくなってしまいました。アメリカのカントリー歌手ロイ・クラークの『Yesterday, When I Was Young』という曲。
 ぼくは普段、歌のある曲を聴いていても、歌詞の内容はほとんど頭に入ってこない人間です。ましてロイ・クラークは、僕とは非常に縁遠いミュージシャンですから、自分がこれほど心を動かされるだなんて思ってもみませんでした。
 ここで歌われているのは、自分の人生の肯定であり、同時に、もはや取り返しのつかないこともあるという諦めの境地です。時間の一方向性の先にある、苦い未来。きっと誰でも、どんな職業についている人でも、時にはそうしたことを考えるでしょう。そしてこの年齢になったぼくにも突き刺さり、泣けて泣けてしようがなかった。
『Yesterday, When I Was Young』という曲を作ったのは、フランスのシャンソン歌手シャルル・アズナヴールです。意外と若い頃に作られた曲のようなのですが、アズナヴール自身が晩年、ヨレヨレな感じで歌っているライブ映像も残っていて、それもとても味わい深いです。
 病気でもしなければこんな曲を良いとは思わなかったかもしれないし、歌詞の内容に耳を傾けられるようになったのは歳のせいもあるかもしれません。だから、演歌だってまだきちんと聴いていないだけで、今なら若い頃とはまた違った受け止め方をできる可能性もあると思います。
 寅さんだってそうですね。『男はつらいよ』シリーズの新作が毎年のように作られていた80~90年代、ぼくたちの世代はそんな映画には目もくれずに『ハイテク』だの『ポストモダン』だのと言いながら、東京の街で遊び回っていた。だけど、その頃の寅さんも、昭和という輝かしい時代が既にもう取り返しのつかない段階まで来てしまったという、郷愁のテーマを扱っていたわけですね。
 そのノスタルジックな感覚は、より敷衍して言うなら、変わりゆく地球全体の環境問題を考えることとも繋がります。だから自分が年を取った今ではもう、『男はつらいよ』のタイトルバックに江戸川が映るのを見るだけで、号泣してしまいます」

 音楽家としての輝かしいキャリアを振り返りながら、70歳になった現在の心境も率直に綴っている。代表作の一つ『戦場のメリークリスマス』についての思考の変遷はファンにはとりわけ興味深いところかもしれない。

「少し前に受けたインタビューで、『せっかく生き長らえたんだから、残りの人生で『戦場のメリークリスマス』(1983年)を超える曲を作りたい』といったことを語りました。
 曲ができるときのひらめきは一瞬です。実際、『戦メリ』のメロディーを思いついたのは、わずか30秒ほどだった。ピアノの前に座り、無意識に目を瞑って、次に目を開けた瞬間には、あのメロディーが和音付きで5本線の楽譜上に見えていました。そんな馬鹿な、と思われるかもしれないけれど、本当のことです。だから、仮に1分でも2分でも命が延びれば、それだけ新たな曲が生まれる可能性も増すんじゃないかと。
 ぼくが敬愛する音楽家たちも、亡くなる直前まで曲を書き続けていました。バッハは死の3ヶ月前に目が見えなくなり、彼が死の直前に取り組んでいたとされる『フーガの技法』の最後のフーガは、フレーズの途中でプツッと切れるように終わってしまっている。子供の頃にその曲を聴いていて、当時はなぜこの部分でと突然終わるんだろう、と不思議に思っていたんだけど、作曲家がそこまで書いたところで失明したからだと後から知りました。
 また、50代で他界したドビュッシーの最後の曲は、世話になった石炭商のおやじに捧げられたものです。第一次世界大戦でヨーロッパ中の物資が枯渇するなか、病に臥せるドビュッシーの家に、おやじは石炭を運んでくれていたそう。そのおやじから頼まれて書いたのが『石炭の明かりに照らし出された夕べ』という短いピアノ曲で、それが遺作になってしまいました。そうした先達の姿を仰ぎ見ながら、自分も最後の瞬間まで新しい音楽を作れたらと願っています。
 でも、どうしていまだに『戦メリ』を超える曲を、と考えてしまうのか。もちろん、これがぼくの代表曲として広く世に知られているからですが、そうしたパブリックイメージに自分で嫌気が差して、実は10年くらい、コンサートで封印していた時期がありました。世界中どこへ行っても、『“戦メリ”を弾いてくれないか』と言われることに、いい加減、うんざりしてしまって。
 それにもかかわらず、なぜ、また再び弾き始めたのか。きっかけは2010年の日本滞在中に、武道館でキャロル・キングとジェイムス・テイラーのコンサートを見たことでした。当然、ぼくを含む客はみんな、キャロル・キングの名曲“You’ve Got A Friend”を聴きたいんだけど、その日は焦らすように、なかなかやってくれない。最後の最後まで待って、やっとラストに演奏してくれたから、生で聴けてよかったと安堵して、ぼくはそこで帰ってしまいました。
 あれだけ『戦メリ』を弾いてやるものか、と意地を張っていた自分ですら、いざ他のアーティストの公演となると、代表曲をやらないことにイライラしてしまいます。だから、坂本龍一のコンサートに『戦メリ』一曲を目当てに来る人の存在も決して否定できない、とそのとき納得したんです。


『新潮』2022年7月号

 もちろん今でも、『“戦メリ”で知られる坂本龍一』などと、この曲が枕詞のような形で紹介されることには抵抗がありますよ。だからある時期までは、そうした世間のイメージを壊したいと頑張っていたものの、このところはもう一周回って、そのために貴重なエネルギーを費やすのはつまらないな、と気持ちが変わってきました。 
 別に他人の認知を改めることを生きがいにしたくはないし、淡々と、自分の作りたい音楽を作り続ければそれで十分じゃないか。最後の一曲が必ずしも良いものになるとは限らないけど、『坂本龍一=“戦メリ”』のフレームを打ち破ることを終生の目標にしたくはない。そのゴールに向かって、残された時間を使うのはアホらしい。さまざまな考えの変遷を経て、それが現在の偽らざる心境です」

『戦メリ』目当てのお客さんのことは気にせず、もう作りたいものを作ってほしい。多くのファンはそう願っていることだろう。

坂本龍一
1952年東京生まれ。3歳からピアノを、10歳から作曲を学ぶ。東京芸術大学大学院修士課程修了。1978年『千のナイフ』でソロデビュー。同年、細野晴臣、高橋幸宏と「YMO」を結成、1983年に散開。出演し音楽を手がけた映画『戦場のメリークリスマス』(1983年)で英国アカデミー賞音楽賞を、『ラストエンペラー』(1987年)でアカデミー賞作曲賞、ゴールデングローブ賞最優秀作曲賞、グラミー賞映画・テレビ音楽賞を受賞。その他、受賞多数。1999年制作のオペラ『LIFE』以降、環境・平和活動に関わることも多く、論考集『非戦』の監修、森づくりを推進する「more trees」の設立など、活動は多岐にわたっている。2006年には、「音楽の共有地」創出を目指す新しい音楽レーベル「commmons」を立ち上げた。2009年、初の自伝『音楽は自由にする』を刊行。2023年、前作『async』以来、約6年ぶりのオリジナルアルバム『12』をリリース。

新潮社 新潮
2022年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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