『夏の情婦』
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どきっとする書き出しの巧さに惑わされ
[レビュアー] 北上次郎(文芸評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「梅雨」です
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佐藤正午は書き出しの巧い作家として知られている。たとえば、長編『恋を数えて』の書き出しはこうだ。
「賭け事をする男とだけは一緒になるな。それが母の遺言でした」
うまいよなあ。そういうなかでもいちばん好きなのは、短編「傘を探す」の書き出しである。
「夢のなかで三晩つづけて姉を抱いたことがある」
思わず、どきっとする。これは義兄の傘を間違えて持ち去られ、それを探して歩く日々を描いた短編だが、この稿を書くために今回三十年ぶりに再読してみた。
この短編の中に、樹村みのりの漫画の話が出てくる。それは「おとうと」という漫画で、会ったその日にプロポーズしてきた男と結婚した姉に、どうして結婚する決心をしたのか、弟が尋ねるくだりがある。この漫画は「COM」の1969年9月号に載ったもので、50年以上前に一度だけ読んだ漫画だというのに、このくだりは私も覚えている。ところが姉の言う理由が私の記憶とは違っていたのでびっくり。知らない間に事実から離れ、自分の好きなように記憶を作り変えていたのだ。いわゆる贋記憶というやつだろう。
しかしいちばん驚いたのは、傘を探す数日が雨また雨の日々であるので、物語の背景はてっきり梅雨の時期だと思っていたのだが、改めて読み直すと突然「十一月」と出てきたことだ。
ええーっ、本当か。それでは今回のテーマからはズレてしまう、と途方にくれるのである。