雨雲からの逃走 沢木耕太郎『飛び立つ季節 旅のつばくろ』試し読み

試し読み

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「旅のバイブル」の名をほしいままにしている不朽の名作『深夜特急』(新潮文庫)。その著者、沢木耕太郎氏が北へ南へ、この国を気の向くままに歩き続けた「国内旅エッセイ集」、『飛び立つ季節 旅のつばくろ』(新潮社)の中から、「雨雲からの逃走」を試し読みいただけます。会津の裏磐梯・五色沼に出かけようと思い立った沢木さんは、あるチャレンジを心に決めていて……。

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雨雲からの逃走

 ずいぶんいろいろな土地を旅しているつもりになっているが、ぽっかりと穴が空いたようにまったく行ったことのない地方というのがある。もしかしたら、私にとってその代表的な土地は会津かもしれない。会津若松も知らなければ、磐梯山も見たことがない。もちろん、水の色が美しいという裏磐梯の五色沼に行ったこともなかった。

 秋、その五色沼に行ってみようと思い立ったとき、あまり旅に予定というものを立てない私が、一週間ほど先の、晴天が続きそうな日を選んで行くことにした。五色沼が美しく見えるためには何より太陽の光が必要だろうと思えたからだ。
 ところが、三日間は晴れが続くという天気予報を受けて、そのうちの一日くらいが晴れてくれればいいというゆったりした計画を立てたにもかかわらず、出発の前日に天気予報が急変し、西から雨雲が急速に近づいてくることになってしまった。その雨雲は関東を通過して東北全域に数日間の雨をもたらすだろうという。
 おいおい、それはないだろうと文句をつけたくなったが、誰に文句を言っていいかわからない。天気予報はあくまで予報にすぎないのだ。
 そして、その旅の初日がやってきた。早朝、窓の外を見ると、予報どおり雨雲の先端が関東にかかったらしく、東京はいまにも雨が降り出しそうな空模様になっている。
 そのとき、ふと閃いた。出発は昼前と考えていたが、いま家を出れば、北に向かっている雨雲より早く会津地方に行けるのではないだろうか。そうすれば、いまはまだ晴れているらしい会津地方にも太陽の光が残っているかもしれない。
 次の瞬間、私は朝食もとらないまま東京駅に向かっていた。そして、仙台行きの東北新幹線に乗り、まず郡山に向かうことにした。
 東京の空は雨雲に覆われているが、この列車が速ければ、北へと向かってくる雨雲をどこかで振り切れるかもしれない。
 しかし、郡山で降りるために私が乗った「やまびこ」は、各駅停車だ。それでも、小山駅に差しかかると、左手の山の端に雲の切れ間から明るい光がほんの少し見えてきた。もしかしたらこの先にはまだ晴れ間が残ってくれているかもしれないと期待が膨らんだが、我が「やまびこ」は宇都宮駅で通過待ちをしはじめた。それも二本だ。
 急げ、やまびこ!
 通過待ちの数分がもったいない。しかし、その一方で、初めて乗る各駅停車の東北新幹線が新鮮でもある。いつもは仙台や盛岡に行くため「はやぶさ」に乗ることが多いので、ほとんど通過してしまう駅に停まっていく。通過待ちをしていると、走り過ぎていく列車の風圧の強さに驚かされたりする。それを面白がりかかって、いや、今日はそんなことを楽しんでいる暇はないのだ、と自分に言いきかせる。
 那須塩原駅でうっすらと青空が見えてきた。
 が、その停車時間が妙に長く感じられる。こんなことをしていると雨雲に追いつかれてしまうではないか。急げ、ではなく、急いでください、という感じになってくる。
 急いでください、やまびこさん。
 その願いが通じたのか、新白河駅を過ぎたところで微かに陽が差してきた。雨雲を振り切ることに成功したらしい。
 郡山駅に着くと急いで磐越西線の普通列車に乗り換えた。車窓から空を見ると、雲と青空の比率が半々にまでなってきている。これなら、五色沼に着くまで、雨雲には追いつかれないかもしれないと希望を持つことができた。

 猪苗代駅で降りると、駅前にある観光案内所で五色沼方面のバスの時刻表と五色沼湖沼群の遊歩道の地図を手に入れた。
 その遊歩道も、五色沼入口から裏磐梯高原駅に抜けていくオーソドックスなルートではなく、逆に裏磐梯高原駅から五色沼入口に戻るルートを選ぶことにした。その理由は、できるだけ早く、最も裏磐梯高原駅寄りにある沼を見たかったからである。パンフレットによれば、その沼が五色沼湖沼群の中で最も透明度が高く、水面に映る風景が美しく見えるとあったからだ。
 しかし、バスの終点の裏磐梯高原駅に着くまでは確かな日差しがあったものの、林間の周遊ルートを歩きはじめると同時に太陽は雲に隠れがちになってしまった。そして、ようやく辿り着いた目的の沼も、ただの水をたたえた平凡な小さな沼にしか見えなくなっている。やはり、青い空と豊富な陽光がないと美しく見えないのかもしれない。これから先の沼も、ただの沼にしかすぎないのだろうか……。
 すべての努力が無になってしまったかのような失望感を覚えながらふたたび遊歩道を歩きはじめた。
 と、次に現れた沼の色を見て、眼をみはった。これまでまったく見たことのない、青と緑の中間のような色の水をたたえていたからだ。正確に言えば、メロンソーダなどにアイスクリームを混ぜ合わせたときに現れる、あの微かに白濁した青緑。宝石で言えば、翡翠に近い色だ。
 ─なるほど、これが五色沼の輝く色のひとつなのか……。
 あるいは、この沼のこの色は、たとえどんな天気でも見ることができるものなのかもしれなかった。だが、私は、太陽の光を求めて「疾走」してきた私の努力に、五色沼の精が報いてくれたものなのだと思うことにした。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

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